利用者:原子力の熊/ヴェネツィア共和国の歴史
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ヴェネツィア共和国の歴史(ヴェネツィアきょうわこくのれきし)とは、ヴェネツィア共和国における歴史である。ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国の自治領として誕生し、アドリア海と東地中海での貿易により繁栄した。強力な海軍を背景に、その版図はダルマチアを始めとしてアドリア海沿岸からイオニア海エーゲ海キプロスに及んだ。しかし、大航海時代に入ると地中海貿易の重要性が相対的に低下し、またオスマン帝国の侵攻により多くの領土を失ったことにより衰退した。そして最終的にはナポレオン・ボナパルトに降伏して滅亡した。
目次

1 最初期

2 中世初期

3 中世盛期

4 15世紀

5 カンブレー同盟戦争とレパントの海戦

6 17世紀

7 衰退

8 滅亡

9 参考文献

9.1 一次史料


10 関連項目

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最初期

北イタリアでは、東ローマ帝国の影響力が減退するにつれてランゴバルド人フン族その他の民族による侵略が行われるようになった。ヴェネツィアの街の起源は、これらの侵略者に対抗するための、沿岸湖沼地帯における相互扶助組織である。726年には、これらの湖沼地帯において最初の指導者としてオルソ・イパートが選ばれた。彼は、東ローマ帝国により承認され、ヒパトゥスとドゥクスの称号を与えられた。歴史的には、彼が最初のヴェネツィアのドージェであるとされる。伝承では、697年にパオルッチョ・アナフェストがドージェになったといわれる。この伝承は11世紀の助祭ディーコンによる年代記が初出であり、疑義があるが、慣例的に697年がヴェネツィア共和国の成立年とされる。いずれにせよ、最初のドージェはエラクレーアで誕生した。

オルソ・イパートの後継者であるデオダート・イパートは、740年代に本拠地をエラクレーアからマラモッコに移した。彼はオルソ・イパートの息子であり、世襲制を確立させようと試みた。こうした試みは初期のヴェネツィアにおいてしばしば為されたが、結局、失敗に終わった。デオダート・イパートの治世に、ヴェネツィアは北イタリアに残る唯一の東ローマ帝国領となり、さらにフランク王国の強大化はヴェネツィア内の勢力図にも影響を与え始めた。東ローマ帝国との関係を維持しようとする勢力と、東ローマ帝国からの事実上の独立を目指す勢力に加えて、フランク王国に近づこうとする勢力が発生したのである。この親フランク勢力は、主にカトリック教会の僧侶の支持を得て、フランク人であるカロリング朝の王ピピン3世を戴くことによりランゴバルド人からの守護を得ようとした。少数派としては、ランゴバルド人の王国と手を結び、大国から距離をおき、近隣国同士の平和を重視する勢力も存在した。

755年にガッラ・ガウロはデオダート・イパートを暗殺し、ドージェの位に就いた。しかし彼は翌年に死亡し、ドメニコ・モネガリオが後を襲った。彼の治世に、ヴェネツィアは漁村から港町へ、商人の街へと変貌を遂げた。造船技術も格段に進歩し、ヴェネツィアによるアドリア海支配の礎が築かれた。また、古代ローマを模して護民官が制定された。毎年二人の護民官が選出され、ドージェの執政を監視し、権力の濫用を防いだのである。ドメニコ・モネガリオは親ランゴバルド派であったが、後継のマウリツィオ・ガルバイオは親東ローマ帝国のエラクレーア人であった。彼は764年から787年まで在位し、ヴェネツィアの国力を充実させると共に、世襲制の確立を試みた。また、ヴェネツィアの街をリアルトへ拡張した。マウリツィオ・ガルバイオの死後、その息子のジョヴァンニ・ガルバイオがドージェとなった。彼は奴隷貿易を巡ってカール大帝と争い、ヴェネツィア教会との軋轢を招いた。

803年のパクス・ニケフォーリにより、フランク王国のカール大帝と東ローマ帝国のニケフォロス1世は、ヴェネツィアが名目上は東ローマ帝国領でありつつも事実上は独立していることを確認した。804年にオベレリオ・アンテノレオがドージェにつくことで、二代続いていた世襲の流れは潰えた。彼はカール大帝の神聖ローマ帝国に従属することを選択した。しかしピピンによる侵攻を招いたため、オベレリオ・アンテノレオは民衆の怒りを買い、ヴェネツィアがピピンの軍勢に包囲される中で家族と共に逃亡せざるを得なかった。ヴェネツィアは最後まで降伏せず、810年、ついにピピン軍を退けた。これ以後、ヴェネツィアは滅亡まで独立を保った。
中世初期

811年から始まるパルテチパツィオ家の治世に、ヴェネツィアの街は現代のものへと変貌を始めた。初代のアンジェロ・パルテチパツィオは、エラクレーアの生まれであったが、リアルトへ移民した。彼は、橋、運河、防壁、要塞、および石造建築を充実させ、街は海上へと拡張された。これが、現代の海上都市ヴェネツィアの原型である。彼の息子のジュスティニアーノ・パルテチパツィオは、マルコの遺体をアレクサンドリアからヴェネツィアへと運び、ヴェネツィアの守護聖人とした。

パルテチパツィオ家からドージェが三代続いた後のピエトロ・トラドニコの下で、ヴェネツィアは軍備の充実を開始した。これは、後に十字軍アドリア海の制海権に大きく影響することになる。彼はスラヴ人サラセン人の海賊と戦い、海の安全を確保した。彼の治世は836年から864年に及んだが、その後継者は再びパルテチパツィオ家から輩出された。ジョヴァンニ・パルテチパツィオ1世である。841年頃、東ローマ帝国がクロトーネからアラブ人の駆逐を試みた際、ヴェネツィア共和国は、それぞれ200人を乗せた60隻のガレー船から成る艦隊を東ローマ帝国の援軍として送ったが、これは失敗に終わった[1]

ピエトロ・カンディアーノ2世の時代に、イストリアの諸都市は ヴェネツィアによる経済上の優位を認める条約を締結した。これを端緒に、ヴェネツィアはダルマチア沿岸における経済大国へと発展する。カンディアーノ家による専制的な支配に対し、972年に反乱が起こった。そして、民衆に推されたピエトロ・オルセオロ1世が976年にドージェとなった。しかし、彼の懐柔路線は政治上の成果を挙げられず、辞職してヴィターレ・カンディアーノに後を譲った。

991年に就位したピエトロ・オルセオロ2世以降、ヴェネツィアの関心は本土よりもアドリア海に向けられた。バシレイオス2世金印勅書によりヴェネツィア商人は免税特権を与えられたため、東ローマ帝国との貿易が著しく拡大されたのである。この種の特権は、東ローマ帝国人にさえ与えられていなかった。1000年には、6隻から成る遠征隊をイストリアに派遣し、ヴェネツィアの宗主権を認めさせた。また、スラブ人海賊を壊滅させることにも成功した[2]。彼が「ダルマチア公」を自称したことに表わされるように、ヴェネツィアは植民帝国への道を歩み始めたのである。なお、現在でも続いている海との結婚の儀式を始めたのはピエトロ・オルセオロ2世である。1008年に彼が死んだ後、息子のオットーネ・オルセオロが後を継いだ。彼は1017年の遠征により、アドリア海の制海権を確固たるものとした。彼は、この制海権が東ローマ帝国とフランク王国に挾まれてヴェネツィアが生きていく上での要であると考えていた。

11世紀叙任権闘争、すなわち神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世が聖職者の叙任権を争う中で、ヴェネツィアは中立を保ったために、教皇庁との関係が悪化した。


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