利用者:デザート/大分岐
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マディソンによる1500年から1950年までのヨーロッパおよびアジア諸国の購買力平価による一人当たりGDPの推定値(英語: List of regions by past GDP (PPP) per capita#1?2008 (Maddison))(1990年国際ドル)[1]。19世紀における日本と西洋のの爆発的成長を示している。

大分岐(英語: Great Divergence)または欧州の奇跡(英語: European miracle)とは、西洋諸国が前近代的な成長限界を克服し、19世紀、覇権国家として台頭したという現象である。清王朝、ムガル帝国、オスマン帝国、サファヴィー朝イラン帝国、江戸幕府など、大分岐以前に強権をふるった西アジア、東アジアの強国を上回る成長を見せた[2]

この現象を説明するために、地理学、文化、知能、制度、植民地主義、資源に基づく理論があるほか、「ただの偶然である」と主張する人もある[3]

ともかく、「大きな分岐」の始まりは、一般に16世紀または15世紀…具体的には、ルネサンスと大航海時代における商業革命、重商主義、資本主義の始まり、西洋帝国主義の台頭、世界の一体化、科学革命、啓蒙時代などがそれに当たると言われている[4][5][6][7]

強いて言えば、もっとも「分岐」がひどくなったのは、18世紀後半から19世紀にかけての産業革命と技術革命であるから、カリフォルニア学派はこの時期だけを大分岐とみなしている[8][9]

交通、鉱業、農業などの分野における技術の進歩は、大分岐の間、東部よりも西部ユーラシアでより高度に受け入れられた。技術によって工業化が進み、農業、貿易、燃料、資源の分野で経済が複雑化し、東西の隔たりがさらに大きくなった。西洋は、19世紀半ばに木材に代わるエネルギーとして石炭を利用したことで、近代的なエネルギー生産において大きく先行することになった。20世紀、大分岐は第一次世界大戦前にピークを迎え、1970年代初頭まで続いた。その後、20年にわたる不確定な変動の後、1980年代後半には大収束に取って代わられ、大多数の発展途上国がほとんどの先進国の経済成長率を大幅に上回る経済成長率を達成した[10]
用語とその定義

「大分岐」という言葉は、1996年サミュエル・P・ハンティントンによってつくられ[11]ケネス・ポメランツが著書『The Great Divergence: China, Europe, and the Making of the Modern World Economy (2000)』にて用いた。同様の現象がエリック・ジョーンズによって論じられており、著書『The European Miracle: Environments, Economies and Geopolitics in the History of Europe and Asia』は「欧州の奇跡」という言葉を広めた[12]。大まかにいえば、両者は近代において西洋諸国が他の地域に比べ、大きく発展した、ということを意味している[13]

その時期については、歴史学者の間で論争がある。一般的には16世紀[注釈 1]と言われており、このあたりから欧州は高度成長の軌道に乗った、というのである[14]。カリフォルニア学派のポラメンツらは、最も急速に分岐したのは19世紀だという[8][15]。当時の西洋人の栄養状態と慢性的な貿易赤字を理由として、同時期アジア諸国の中には西洋諸国と匹敵するほどの経済力を有していた国が存在していると述べる[注釈 2]。経済史家のプラサナン・パルタサラティは南インド、特にマイソールの賃金はロンドンに匹敵するなどと主張しているが、証拠は散逸しており、結論を出すためにはさらなる研究が待たれる状況である[17]

大分岐の要因は、ルネサンスや科挙など、それ以前の時代や制度に端を発するという意見もある[18][19]。経済学者のスティーブン・ブロードベリーは、銀賃金ではアジアの最有力地域でも16世紀には西洋に遅れを取っていたといい、イングランドと揚子江デルタ[注釈 3]を比較した統計を引いて16世紀までにイングランドは後者の平均賃金の3倍、小麦換算で15%[注釈 4]都市開発が進んでいたと示した。イングランドの銀賃金も16世紀後半にはインドの約5倍である。穀物賃金の相対的な高さは穀物の豊富さを示し、銀賃金の低さは全体的な発展水準が低かったことを繁栄している[注釈 5]。穀物賃金の乖離が激しくなるのは18世紀初頭からでイギリスの賃金が小麦換算でインド、中国の2.5倍であるのに対し、以前5倍の値を保っていた[21]。ブロードベリーは南アジア、中央アジア、東欧の賃金は19世紀初頭までアジアの先進地域と同等であったと述べる[22]
大分岐以前のユーラシア大陸主要地域「なぜイスラム教国家に比べ貧弱だったキリスト教国家が現代になりかくも多くの土地を奪い始め、かつて強勢を誇ったオスマン帝国軍さえも破るようになったのか」(中略)「すなわち彼らには理性によって発明された法律や規則があるからなのである。」(拙訳) ? イブラヒム・ミュテフェッリカ、『国家政治の合理的基礎』(1731)[23]

ユーラシア大陸の主要地域は18世紀までにそれなりの生活水準に達したが、土地不足、土壌の劣化、森林伐採、信頼に足るエネルギー源の不足、その他生態学的の制約が成長を阻害した。減価滅却の憂き目のために、大分岐の経済活動ではその貯蓄のほとんどを枯渇した資本を大量に確保する必要があるため、貯蓄は妨げられた[24]。継続的な成長と貯蓄のため、人々は燃料、土地、食料、その他資源を大量に確保する必要に駆られ、植民地主義へと繋がったのである[25]

産業革命はこうした制約を克服して、史上始めて一人当たりGDPを「伸ばし続ける」ことに成功した。
西洋詳細は「ヨーロッパ経済史(10世紀~現在)英語: Economic history of Europe (1000 AD?present))」を参照

ヴァイキング、ムスリム、マジャール人の侵掠の後、西洋は中世と呼ばれる時代に入った。この時代には、人口増加や領土拡大のために交易、商業が活性化し、農村と都市の職人の専門化が進んだ。13世紀になると良質の土地は専有され、農業収入は減少し始めたが、商業は特に北イタリアで拡大を続けた。しかし、14世紀には飢饉、戦争、黒死病、その他疫病という災難が相次いだ。

経済成長の歴史的起源では、黒死病が成長に追い風を吹かせた可能性を検証している。黒死病による労働力不足は女性の労働力参入を促し、農業労働力の市場を活性化させた[26]。その結果、人口は減少し、賃借料は下がり、賃金は上昇し、中世ヨーロッパを特徴づけていた封建的・荘園的関係が損なわれた[27]

2014年の研究によれば、「14世紀初頭から19世紀初頭にかけて、欧州内には『小さな分岐』があった。北海地方の実質賃金は黒死病の後に達成された水準でほぼ安定し、近世[注釈 6]を通じて比較的高い水準[注釈 7]を維持したのに対し、『周辺部』[注釈 8]の実質賃金は15世紀以降に下がり始め、16世紀から300年かけてある種の自給自足の最低水準に戻った。欧州の『周辺部』では16世紀から19世紀にかけて一人当たりGDPがほとんど伸びなかった[注釈 9]のに対して、英蘭では実質所得が上昇し続け、この期間に多かれ少なかれ倍増した」[28]

大航海時代には、アメリカ大陸や東アジアへ至る航路が開拓され、株式会社や金融機関などの革新とともに商業がさらに拡大した。

軍事革命は巨大な軍隊を支え、商業を拡大する国家が国力を伸ばした。ネーデルラント連邦共和国は商業国家となり、イングランド王国は名誉革命で議会が政権を奪取した。16世紀末、ロンドンとアントウェルペンが急速に力を伸ばし始めた。貿易と議会が経済発展を促進したのである[29]


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