利用者:キャンベル・アーリー/下書き2
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20世紀後半、キャンティの一般的なイメージといえば、フィアスコと呼ばれる藁の籠に包まれたボトルであった。

今日最も有名なイタリアワインのひとつであるキャンティの歴史は、少なくとも13世紀後半まで遡ることができ[1]、最初に生まれたキャンティは白ワインであった。中世の時代、フィレンツェ近郊のガイオーレカステッリーナラッダはキャンティ同盟(レーガ・デル・キャンティ (Lega del Chianti) )を結成し、キャンティの区域のなかでも精神的・歴史的な中核を担う一帯を形成した[1]。これらは現在のキャンティ・クラッシコ DOCGの区域内に位置する。キャンティのワインの人気が高まるにつれ、トスカーナの他の村々もキャンティと呼ばれることを求め出した。キャンティの区域では、何世紀にもわたって拡大と下位区分が繰り返し行われている。さまざまな微気候を有する多様なテロワールのおかげで、市場に出回るワインの品質はまちまちであり、20世紀後半を迎える頃には、フィアスコと呼ばれる藁の吊り籠に包まれたずんぐりとしたボトルの、日常的な大量消費用ワイン、というのがキャンティに対する消費者の認識となっていた[2]

対象区域だけでなく、キャンティに使用するブドウ品種の構成もまた、歴史の中で大きく様変わりした。最初期のキャンティは白ワインであったが、徐々に赤ワインへと移っていった。第2代リカーゾリ男爵ベッティーノ・リカーゾリ(のちのイタリア王国首相)は1872年に初の「キャンティの製法」を編み出し、サンジョヴェーゼ70%、カナイオーロ15%、マルヴァジーア・ビアンカ15%という使用比率を推奨した。1967年の統制原産地呼称 (D.O.C.) の規定では、サンジョヴェーゼを主体とし、マルヴァジーアおよびトレッビアーノを10-30%使用するというブレンドを「リカーゾリの製法」としてイタリア政府が確定した。しかしながら、生産者のなかにはこうした基準に従わず、サンジョヴェーゼを100%使用したワインや黒ブドウのみを使用したワイン、あるいはカベルネ・ソーヴィニヨンやメルローといったフランスの品種とのブレンドを望む者もいた。一部の生産者は実際に自分たちの考える「キャンティ」を作ったものの、キャンティの表記を禁止されていたため、たんなるヴィーノ・ダ・ターヴォラとして売り出した。低い等級に分類されながらも、こうした「スーパー・キャンティ」はワイン評論家や消費者によって国際的に認知されるようになり、「スーパータスカン(スーペル・トスカーナ)」という呼び名が造られた。その成功を受け、政府当局は保証付き統制原産地呼称 (D.O.C.G.) の規定を大幅に改定し、それまでヴィーノ・ダ・ターヴォラに分類されていたワインの一部にもキャンティの表記を認めたのである[2]
「クラッシコ」地区の画定1716年にトスカーナ大公コジモ3世・デ・メディチは、初めて公式にキャンティの区域を法的に定めた。それは今日のキャンティ・クラッシコ DOCGの一部を成している。

中世において、フィレンツェとシエナの間、バリアッチャからモンテ・ルーコまでの丘陵地帯はキャンティ山地 (Monti del Chianti) の名で知られていた[1]。この地域はワイン醸造で有名であり、とりわけカステッリーナ、ガイオーレ、ラッダの3つの村が評判を得ていった。 これらの村は、フィレンツェの商人が特別なワインとして売り出せるように、キャンティ同盟(レーガ・デル・キャンティ)を結成した[1]。1716年にはトスカーナ大公コジモ3世・デ・メディチは大公令を出し、キャンティ同盟の村に加えてグレーヴェおよびその北側の丘陵地帯のみを、公式に認められたキャンティの生産者であると定めた。この線引きは1932年まで存在し、同年7月にイタリア政府はキャンティの区域を周辺地域のバルベリーノ・ヴァル・デルサ、キオッキオ、ロッビアーノ、サン・カシャーノ・イン・ヴァル・ディ・ペーザ、ストラーダにまで拡大した。追加された地域のなかには、ロッビアーノのように、フィレンツェ近郊の広大な丘陵地(現在のキャンティ DOCGの下位区分地区、コッリ・フィオレンティーニ)も含まれており、そこで生産されるワインはより軽口で、熟成や品質向上には向いていなかった。1932年の拡大版キャンティの区域は1966年のD.O.C.規定によって政府からお墨付きを与えられた[2]

1984年にキャンティ DOCがD.O.C.G.に昇格したのち、1996年にはキャンティ・クラッシコが分離してそれぞれ別個のD.O.C.G.となった[1]。その領域は合わせて15,500ヘクタール以上あり、北はフィレンツェから南はシエナまでに及ぶ[1]。カステッリーナ、ガイオーレ、グレーヴェ、ラッダの4つのコムーネに加え、フィレンツェ県のバルベリーノ・ヴァル・デルサ、サン・カシャーノ・イン・ヴァル・ディ・ペーザ、タヴァルネッレ・ヴァル・ディ・ペーザの一部と、シエナ県カステルヌオーヴォ・ベラルデンガポッジボンシの一部がその区域のなかに含まれる[2]
ルネサンス期までの歴史

キャンティの初期の歴史は、トスカーナ地方全体の歴史と密接に交わっている。この地域におけるブドウ栽培の歴史は、紀元前8世紀にエトルリア人が定住するようになった頃まで遡る。同地域産のアンフォラの遺物からは、早くも紀元前7世紀後半には、トスカーナのワインがイタリアだけでなくフランス南部まで輸出されていたことが判明している[3]。西ローマ帝国滅亡後、中世全般にかけてトスカーナでは修道院がワインの主要な供給元となっていたが、貴族商人層が台頭すると、彼らはメッツァドリアの名で知られる分益小作制度を受け継いだ[4]。この制度の名称は、地主が土地と作付けに必要な物資を提供するかわりにその年の収穫物の「半分」(メッツォ、: mezzo)を受け取る、という取り決めに因む[4]。キャンティ地方の地主たちは、生産されたワインの半分を取り分として受け取り、そのワインの大部分がフィレンツェから他の地域へ売られていたと考えられる[4]。フィレンツェでワインを販売する者のことが初めて記録されたのは1079年のことで、1282年にはワイン商のギルドが設立されている[4]フィレンツェの交易商、フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニは、キャンティのワインを売った最初の実例とされており、このときのワインは赤ではなく白ワインであった。

フランススペインとは異なり、中世のイタリアにはワインの輸出先となる確固とした市場がなかった[5]。最も地理的に近いフランスとオーストリアは、巨大なアルプス山脈で隔てられており、また地元でのワイン供給も十分にあった。この時点でイングランドはイタリアワインにほとんど関心を示しておらず、フランスおよびスペイン、のちにはポルトガルをワインの潤沢な供給源と見なしていた[5]カンパーニャ産の甘口ワインであるラクリマ・クリスティ(英語版)はイタリア以外の市場でもいくらか見かけられたが、イタリアのワインのほとんどは地元の市場におけるシェアを競い合うこととなった[5]。それでもなお市場のほとんどは貴族向けに限られていた(ローマナポリといった大都市を除けば有力な中流階層はまだ誕生しておらず、貴族たちはヴェルナッチャから作られるアルコール度数の高いワインやアレアティコ(英語版)から作られる甘口ワイン、そしてヴィン・サントを好んだ)[5]


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