イスラーム教において、別離の巡礼(??? ??????, ?ijjat al-wad??)とは、ヒジュラ暦10年(西暦632年)に預言者ムハンマドが行った、その生涯で最初で最後となる巡礼(ハッジ)のことである。この巡礼においてムハンマドがして見せた礼拝の手順や所作が、その後の全世界のムスリムの儀礼における模範になった。また、巡礼中や巡礼後の説教が、その後のイスラームのあり方に多大な影響を与えた。 ムハンマド・ブン・アブドゥッラーがメッカでの迫害を逃れてヤスリブへ移住(聖遷、ヒジュラ)後のある日、神(アッラー)からムハンマドに巡礼が信仰者の義務である旨の啓示が下った[注釈 1]。その後ムハンマドは何度も巡礼を試み、2回はメッカで礼拝もしたが、これらは神意にかなった巡礼ではなかったと解されている。聖遷後10年目の年、ムハンマドはメッカ巡礼の支度をした。出発の日、マディーナ(ヤスリブ)だけでなく近在の村々からも預言者の巡礼に同行しようと人々が集まってきた。ムハンマドは出発の直前、アンサールの一人、アブー・ドゥジャーナを呼んで、自分が留守の間、マディーナを守るように言いつけ、ズルキアダ月
巡礼に出発
ムハンマドはマッカの街に入る前、いったん水場に立ち寄り、人々に、巡礼の前には一度このような水場(ミーカート)で斎戒するべきであることを教えた。預言者はグスル(英語版)という身を清める儀式を行ってから、飾りのない布を身に纏って街に入った。このときムハンマドが着た衣(ころも)は、2ピースに分かれた縫い目のないイエメン製の純白の綿布であったと伝承され、後には彼自身の死に装束になった。なお、このときムハンマドが斎戒を行った場所は、現在ズルフライハ(アラビア語版)というマスジドになっている。[2][3]
儀礼の数々
周回と礼拝詳細は「タワーフ」および「サラート」を参照
翌日、ムハンマドと教友たちは、カアバ聖殿のあるところに到着した。ダールッサラーム門から入り、カアバに行き、黒石に触れた。そして、カアバの周りを周回した(タワーフ)。最後にもう一度黒石に触れ、それに接吻して、その傍でタクビールを唱えた。そして、カアバを背にラカアートを2回行った。 ムハンマドは礼拝の後ザムザムの泉の水を飲み、再度礼拝した。その後、サファーとマルワという2つの丘に行き、今から「捜し物をする」(サアイー)と言った。この「捜し物」はアブラハムの妻ハガルが幼子イシュマエルを連れて飲み水を探してこの2つの丘の間をさまよったという当時アラブ民族に伝わっていた旧約聖書的神話に由来する。ムハンマドはサファーの丘でカアバに向かって長く礼拝を行い、小走りでマルワの丘へ行き、そこでもカアバに向かって礼拝を行った。[4] ズール・ヒッジャ月 日が落ちると、ムハンマドはラクダに乗ってムズダリファ
サアイー
ミナーとアラファの丘
悪魔への石打ち
犠牲祭詳細は「イード・アル=アドハー」を参照
その後ムハンマドは、自分の生きた年の数だけのラクダをほふり、さらにマディーナからつれてきた37頭のラクダを加えて、犠牲の数を100とした。そして同行の巡礼に肉を分け与え、床屋を呼んで髪を剃らせた。そしてまた、カアバの周りを何回か回り、ザムザムの泉の水を飲んで昼の礼拝をした。その後ミナーに戻り、3日間をそこで過ごした。この3日間(ズール・ヒッジャ月の11日から13日まで)をタシュリークという。ムハンマドはミナーでまた、悪魔への石打ちを行った後、ミナーを出た。
マディーナへの帰還詳細は「ガディール・フンムでの出来事(英語版)」を参照
シーア派に伝わる伝承によると、マディーナへ戻る途中のズール・ヒッジャ月の18日、ムハンマドはガディール・フンムという場所に立ち寄った。そして巡礼が解散する前に、ラクダの鞍の上から長い説教を行った。これがシーア派にとっての「最後の説教」である。ガディール・フンムにおける最後の説教では、アリーがムハンマドの後継者となるべきことが示唆されたとされる。[7]
後世の意義付け