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出典検索?: "別府地獄めぐり"
別府地獄めぐり(べっぷじごくめぐり)は、大分県別府市の別府温泉に多数存在する様々な奇観を呈する自然湧出の源泉「地獄」を、定期観光バスなどで周遊する定番の観光コースである。また、これらの地獄の総称としても使われる。海地獄、血の池地獄、白池地獄、龍巻地獄は、2009年(平成21年)7月23日に、別府の地獄として国の名勝に指定されている[1][2]。 別府温泉には、含有物によって青、赤、白などの様々な泉色を呈する温泉や、間欠泉などの特色のある源泉が点在する。また、温泉の熱を利用して飼育・育成した動植物を展示する施設を併設したものもある。このような、入浴ではなく、観覧を主な目的とした温泉は地獄と呼ばれ、別府観光の目玉のひとつとなっている。 地獄という呼び方がいつ頃始まったのかは定かではないが、1694年(元禄7年)に貝原益軒が著した『豊国紀行』では随所で「地獄」という呼称が使われている[3]。 かつてはやっかいもの扱いされて誰も手をつけないでいた地獄だが、温泉付き別荘地の開発をきっかけに温泉給湯の源泉として整備され人が安全に近づけるようになると、湯治客が地獄を覗き見するようになったという。それが観光施設として商業化されるようになったのは、1910年(明治43年)に、海地獄が施設を整えて入場料を徴収するようになったのがはじまりである。 大正時代に入ると自動車が遊覧に用いられるようになり、昭和初期にかけて小噴気孔を掘削して大噴出を誘導することが盛んに行われて、鉄輪地獄(1922年)、龍巻地獄(1923年)、無間地獄(1924年)、鶴見地獄(1925年)、八幡地獄(1928年)、鬼石地獄(1930年)、白池地獄(1931年)、鬼山地獄、金龍地獄(1932年)、かまど地獄(1926年)、雷園(1927年)と次々に新たな地獄が出現した[3]。ところが鉄輪地獄地帯においては大小の地獄の開発が相次ぎ、それが近接していたことで在来の泉源の湧出量が低下する事態となり、新規の持続開発は差し止められ、1920年代にて頭打ちとなった。 現在の定期観光バスによる地獄めぐりは、別府駅を起点として鉄輪の海地獄から柴石の龍巻地獄まで時計回りに行われている。ところが、昭和30年代までは南立石の鶴見地獄・八幡地獄、明礬の紺屋地獄等も非常に有名であり、今よりも地獄めぐりの範囲が広かった。つまり、現在は海から別府を見たときに右側(北側)の山手(御幸・野田)に地獄が集中しているのに対して、昔は左側(南側)の山手(南立石)や中央の山手(明礬)にも有名な地獄があり、別府の各地に散らばる地獄を遊覧するために、1917年(大正6年)頃に初めてハイヤーを使った遊覧が行われたが、団体客の輸送に十分に対応することはできなかった。 1928年(昭和3年)に別府市で中外産業博覧会が開催されることになり、博覧会を機に別府を訪れる多数の観光客に対応するため、本格的な交通インフラの整備が急務とされた[3]。まず、1921年(大正10年)12月別府温泉の繁華街流川を起点として、流川 - 霊泉寺(鶴見地獄) - 鉄輪 - 柴石 - 亀川駅の間に地獄循環道路が整備される [注 1]。続いて 1924年(大正13年)、広島瓦斯電軌が地獄循環道路の流川8丁目?鉄輪間に軌道敷設特許を出願し、別府遊覧電気軌道が設立される。しかし計画は頓挫し博覧会までの開通には至らなかった[注 2]。 そこで、亀の井ホテルの創業者・油屋熊八が、1928年(昭和3年)1月に亀の井自動車(現在の亀の井バス)を設立し、地獄めぐり遊覧バスを運行することとなった。当時の遊覧バスは、午前7時半(冬期は8時半)から午後4時までの25分毎に発車し、乗客は途中の地獄で自由に降車し、他のバスに再乗車することができた[3]。今日、全国で見られる女性バスガイドは、この際に熊八が考案したことに始まる。2009年(平成21年)に亡くなった村上アヤメは当時採用された第一号ガイドの一人である[4]。若い女性の採用と、七五調による観光案内[注 3]を行い、大好評を博したこの遊覧バスの成功が、地獄めぐりの人気を決定的なものとした。 そして、現在も亀の井バスにより運行されている『別府地獄めぐり』は、国内で最も長い歴史を持つ定期観光バスであり、女性バスガイドによる昔ながらの七五調の観光案内も一部交えて、地獄組合加盟の8つの地獄を約2時間半で巡ることができる[5]。
概要地獄めぐり遊覧バス(1950年代)
豊かな温泉資源の象徴
遊覧バスと全国初の女性バスガイド