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べっしやまむら
別子山村
別子山ふるさと館
廃止日2003年4月1日
廃止理由編入合併
別子山村 → 新居浜市
現在の自治体新居浜市
廃止時点のデータ
国 日本
地方四国地方
都道府県愛媛県
郡宇摩郡
市町村コード38303-1
面積73.00 km2
総人口277人
(2003年3月31日)
隣接自治体新居浜市
伊予三島市・宇摩郡土居町(現四国中央市)
高知県土佐郡大川村
高知県土佐郡本川村(現吾川郡いの町)
(2003年3月31日現在)
村の木ゴヨウマツ
村の花シャクナゲ
別子山村役場
所在地〒799-0650
愛媛県宇摩郡別子山村字ヲトヂ甲477番地
別子山村役場(新居浜市別子山支所として2020年11月まで活用、2023年撮影)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度50分48秒 東経133度22分41秒 / 北緯33.846583度 東経133.378139度 / 33.846583; 133.378139座標: 北緯33度50分48秒 東経133度22分41秒 / 北緯33.846583度 東経133.378139度 / 33.846583; 133.378139
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別子山村(べっしやまむら)は、愛媛県にかつて存在した村である。宇摩郡に属した。2003年(平成15年)4月1日に隣接する新居浜市に編入合併し、単独自治体としての別子山村は消滅した。別子銅山で栄え、一時は人口は1万人を超えたが、採鉱の中心が新居浜側に移った途端に人口は激減し、人口300人に満たない山村へと戻った。
村役場は合併後、新居浜市役所別子山支所になった。旧役場と支所は同一場所であったが、合併に伴い施行された地籍調査により地番は新居浜市別子山字ヲトヂ甲482番地の3に変更された[1]。 北の新居浜市と隔てる赤石山系をはじめとして周囲を千数百メートル級の四国山地の山々に囲まれた山村。(平成の合併が始まる前の時点で)離島を除けば全国で二番目に小規模(人口が少ない)の自治体であった。 銅山川(吉野川の支流のひとつ)の上流域に位置する。新居浜市側と三島側(現・四国中央市)の両方からアクセスできるが、四国中央市からの方が道が整備されている。両方とも道路は県道の新居浜別子山線の一本のみで、銅山川のV字型渓谷に沿って走る道路の沿線の斜面に僅かに人家や公共施設が点在し、平地はほとんど無い。
地理
歴史
開村(伝承によるもの、詳細不明)伝説の一つによると、平家の落人の三兄弟がこの地へと落ちのびてきて、住み着いた。三兄弟にちなむ、余慶(よけい)、豊後(ぶんご)、葛籠(つづら)という地名が村内にはある。
藩政期江戸幕府領となる。(ほとんどの期間、伊予松山藩預所)1648年(慶安元年) - 伊予国知行高郷村数帳の宇摩郡の項に、「別子山」の文字がうかがえる。
銅山により繁栄始まる人里から離れてひっそりと存在するような村であったが、別子銅山の採掘が始まり急速に発展を遂げる。1690年(元禄3年) - 別子銅山発見1691年(元禄4年) - 別子銅山開業(足谷銅山)1825年(文政8年) - 伊予国宇摩郡村々様子大概書によると「此村芦谷(足谷の誤記と思われる)と申所に銅山あり」「他之山中よりハ賑ひあり」とある。
近代 - 現代 - 世界一の産銅量を誇った同銅山と共に発展、そして衰退、静かな山村に戻る1889年、町村制の施行により、別子山村が発足する。