判任(はんにん[1])は官人や官吏の任官手続きの種類で天皇の委任を受けた行政官庁の長が官職に任ずることまたはその官職をいい、とくにその官職をいう場合は判任官(はんにんかん[1]、英語: junior official)という。
1886年(明治19年)に高等官を設けてからは判任官をその下位に位置付けており[2] [3]、明治憲法の下で用いられ1946年(昭和21年)に廃止された[4]。 律令制では式部省や兵部省からの申し出により太政官が官職に任ずることまたはその官職を判任といい[5]、官位相当の定めがない郡司の主政・主帳及び家令等は判任とした[6] [7]。判任の上位に奏任があり下位に判補がある[8]。 明治以後の判任は、1868年7月4日(慶応4年(明治元年)5月15日)に勅授官・奏授官・判授官(はんじゅ[9]かん)[注釈 1]を区別したことが始めで、政体書の官等制で第一等官から第九等官までのうちの六等官以下を判授官とし宣旨に所属官の印を押すとした[11]。第六等官は県の二等判県事、外国官の一等訳官とし、第七等官は神祇官・会計官・軍務官・外国官・刑法官の書記、県の三等判県事、司の判司事、外国官の二等訳官とし、第八等官は官掌、守辰、三等訳官とし、第九等は訳生、使部とした[12]。このときの俸給は月給としており、江戸開城した後も戊辰戦争は継続していたことから関東平定まで五等以上の月給は減額することにしていたが、六等以下はすべて本額の通り渡すこととした[13]。 この頃には判任官の下に等外(とうがい[14])・附属吏がある[15] [16]。 1869年(明治2年7月)の職員令による官位相当制[17]では正七位以下を判任とし、ただし判任について官はその長官よりこれを授け位階は太政官よりこれを賜うとした[18]。しかし、1870年11月24日(明治3年閏10月2日)に判任の者へは位階を下賜しないことになった[19]。正七位相当は神祇官の権大史、太政官の権少史、諸省の大録、諸寮の允、諸司の大佑、刑部省の中解部・逮部長、外務省の中訳官、集議院の大主典、大学校の大主簿・中助教・大寮長、弾正台の大疏、皇太后宮職・皇后宮職・春宮坊の権少進、中藩の権少参事、小藩・県の少参事、留守官・開拓使の大主典とし、従七位相当は神祇官の少史、諸省の権大録、諸寮の権允、諸司の権大佑、刑部省の少解部、外務省の少訳官、集議院の権大主典、大学校の少主簿・少助教・中寮長、弾正台の少巡察、皇太后宮職・皇后宮職・春宮坊の大属、府の大属、小藩の権少参事、県の大属、留守官・開拓使の権大主典とし、正八位相当は神祇官の権少史、太政官の主記、諸省の少録、諸寮の大属、諸司の少佑、刑部省の逮部助長、集議院の少主典、大学校の大得業生・少寮長、弾正台の少疏、皇太后宮職・皇后宮職・春宮坊の権大属、府・県の権大属、留守官・開拓使の少主典とし、従八位相当は神祇官の史生、太政官の官掌、諸省の権少録、諸寮の権大属、諸司の権少佑、集議院の権少主典、大学校の中得業生・大写文生、弾正台の巡察属、皇太后宮職・皇后宮職・春宮坊の少属、府・県の少属、留守官・開拓使の権少主典とし、正九位相当は神祇官の官掌、諸省の史生、諸寮の少属、諸司の大令史、集議院の史生、大学校の史生・少得業生・中写文生、弾正台の史生、皇太后宮職・皇后宮職・春宮坊の権少属、府・県の権少属、留守官・開拓使の史生とし、従九位相当は諸省の省掌、諸寮の権少属、諸司の少令史、刑部省の逮部、集議院の院掌、大学校の校掌・少写文生、弾正台の台掌、皇太后宮職・皇后宮職の史生・職掌・春宮坊の史生・坊掌、府・県の史生、開拓使の使掌とした[17]。このときの俸給である官禄は石高で示し官位相当表によって定めた[20] [21]。 官位相当表に掲載しない下級官吏は判任官よりも下の等外とした[22] [注釈 2]。
律令制における判任
明治の太政官制における判任官と等外吏
1868年(慶応4年閏4月)政体書・官等9等
1869年(明治2年7月)職員令・官位相当制
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