初芝清
[Wikipedia|▼Menu]

初芝 清オールフロンティア 監督 #66
セガサミー監督時代
2014年11月11日 京セラドーム大阪にて
基本情報
国籍 日本
出身地東京都豊島区
生年月日 (1967-02-26) 1967年2月26日(57歳)
身長
体重180 cm
98 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション三塁手一塁手
プロ入り1988年 ドラフト4位
初出場1989年5月30日
最終出場2005年9月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


二松學舍大学附属高等学校

東芝府中

ロッテオリオンズ
千葉ロッテマリーンズ
(1989 - 2005)

監督・コーチ歴


かずさマジック

セガサミー

オールフロンティア

この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

初芝 清(はつしば きよし、1967年2月26日 - )は、東京都豊島区出身、埼玉県坂戸市育ちの元プロ野球選手内野手)、野球解説者、現社会人野球監督。株式会社オフィス・オーパ所属[1]
経歴
プロ入り前

埼玉に移り住んだ小学4年より野球を始める。二松學舍大附属高校では、2学年時からエース、3番打者として活躍。1984年夏の甲子園予選東東京大会で決勝に進むが、日大一高に敗退。高校通算30本塁打。高校卒業後はプロ入り志望だったが、ドラフト会議では指名をもらえず[2]、同校卒業後は社会人野球東芝府中に入社。内野手に転向し、プリンスホテルNTT東京の補強選手として都市対抗野球大会に3回出場した[2]

1987年ドラフト指名解禁となったこの年は成績が良くなく残留。翌1988年にプロ入り希望を会社に出した時に「関東の球団、ドラフト3位以内、ロッテ以外(東芝府中からロッテに入団した中では、落合博満以外の選手の待遇が良くなかったことが理由)」の3つ全てクリアしたらOKという条件が出された[2]

1988年同年のドラフト会議において4位でロッテオリオンズ(後の千葉ロッテマリーンズ)から指名されるが、この時会見場からはため息が漏れ、周囲の会社関係者は誰も喜んでいなかったという[2]。この時クリアした条件は「関東の球団」だけだったが、それでも本人はプロへ行くつもりで、「ロッテで活躍して必ず東芝府中の名前を宣伝します」とアピールしてようやく許可を取りつけたという[2]。契約金4,300万円・年俸520万円(金額は推定)で入団。入団時の背番号は0であったが、1994年からは東芝府中の先輩・落合博満がロッテ時代につけていた背番号6を引き継ぎ、応援歌も落合のものが流用された。
ロッテ時代

1989年有藤通世監督の厳しい指導により、苦手にしていた内角をさばけるようになり、1年目から70試合に出場する[3]。この時期に打撃のベースが出来たことで、プロでやっていける自信をつけたという[3][4]。この年は落合のような神主打法に挑戦したが、翌年から通常のフォームに戻している[5]

1990年、オープンした千葉マリンスタジアムこけら落としの試合で、球場初本塁打を放つ[6]。三塁手のレギュラーとして120試合に出場し、初めて規定打席に到達。打率.265(リーグ23位)、18本塁打、67打点の成績を残す。

1995年には第一次バレンタイン政権の5番打者となる。同年のパ・リーグ打点王のタイトルはロッテのシーズン最終戦を残した9月27日現在で初芝79打点(残り1試合)、田中幸雄79打点(残り3試合)、イチロー78打点(残り3試合)と僅差で争っていた。一方、初芝は初のシーズン3割もかかっていて、9月27日現在で.302(454打数137安打)。最終戦で4打数0安打だと3割を切ってしまう(458打数137安打、打率.2991)ため、3割を切る可能性が出た時点で交代させると首脳陣から打診されたが、本人は「3割よりタイトルを狙いたい」とこの提案を拒んだ。そしてその最終戦では3打席凡退し(457打数137安打、打率.2997)、同年の最終打席になるであろう第4打席は8回2死走者なしで回ってきた。凡退すれば3割をフイにするうえ、走者なしのため本塁打でないと打点を上乗せできない状況で、見事にレフトへ25号本塁打(投手:豊田清)を打ち1打点を加え、80打点でシーズンを終了。シーズン3割も確保した(458打数138安打、リーグ4位の打率.301)。最終的に3人が80打点で並びタイトルを分け合うことになったとはいえ、このシーズン最終打席の本塁打により選手生活で唯一の打撃タイトル(打点王)を獲得、同時にシーズン3割を達成することができた。同年は三塁手のベストナインのタイトルを獲得。また同年オフの契約更改で、球団初の1億円プレーヤーとなる。

1996年は当初スランプに悩まされるが、極度の乱視であることが分かり、眼鏡を着用して復調した[7]

1998年は前年の不振から一転し、140安打・25本塁打・86打点・OPS.922など多くの項目でキャリアハイを達成。同年中にはFA権を取得、FA宣言した上でロッテに残留した[8]

1999年シドニー五輪アジア予選の日本代表に選出され[9]、全日本の4番打者として予選突破に貢献する[10]

2000年10月16日に対オリックス戦(千葉)で本塁打を放ったが、他の10球団が公式戦を終えていて、対戦相手のオリックスや初芝以外の自軍の選手に本塁打が出なかったため、20世紀最後の本塁打になった。

2003年ホセ・フェルナンデスが入団し、定位置を譲るが、代打7打席連続安打(プロ野球記録)を達成するなど、代打の切り札として活躍した。

2005年9月19日、体力の衰えと若手の台頭を理由に現役引退を表明。9月22日、本拠地最終戦の対ソフトバンク戦後に引退セレモニーが行われた。当日の試合では6回裏に代打で出場。ソフトバンクとは首位争いの最中だったこともあり、相手捕手の城島健司に真剣勝負を申し出た結果三瀬幸司からデッドボールを受けてしまい、場内は笑いに包まれた[5][11](もう1打席回ってきたが、ライトフライに倒れた)。

その翌日から行われた東北楽天ゴールデンイーグルスとの3連戦では、レギュラー三塁手の今江敏晃が足の張りを訴えたため、引退セレモニー直後でありながら三塁手としてスタメン出場し、安打も放っている[12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:59 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef