初期フランドル派
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アルノルフィーニ夫妻像』(1434年)、ヤン・ファン・エイク
ナショナル・ギャラリーロンドン)所蔵。
この肖像画はその寓意性、象徴性に複雑な意味を持たせた西洋絵画の嚆矢とみなされており[1]、さらに垂直遠近法を採用した最初期の絵画作品の一つと言われている[2]十字架降架』(1435年頃)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン
プラド美術館マドリード)所蔵。

初期フランドル派(しょきフランドルは)、または初期ネーデルラント派(しょきネーデルラントは)は、15世紀から16世紀にかけて北方ルネサンス期(アルプス以北の北ヨーロッパ[† 1]の美術運動を意味すると同時に、イタリア以外での全ヨーロッパのルネサンス運動の意味もある)のブルゴーニュ領ネーデルラントで活動した芸術家たちとその作品群を指す美術用語。初期フランドル派は、フランドル地方トゥルネーブルッヘヘントブリュッセルなどの都市で特に大きな成功をおさめただけでなく、西洋美術史上の観点からも極めて重要な美術運動である。

初期フランドル派の作品には最後期ゴシック様式である国際ゴシックの影響がみられるが、1420年代初頭に活躍したロベルト・カンピンヤン・ファン・エイクが、国際ゴシック様式をさらに発展させた。美術運動としての時代区分は、少なくとも前述のロベルト・カンピン(1375年頃 - 1444年)とヤン・ファン・エイク(1395年頃 - 1441年)が活動した1420年代初頭から、ヘラルト・ダフィト(1460年頃 - 1523年)の死去まで続くとされている[3]。ただしその終焉を、八十年戦争のきっかけとなったネーデルラント諸州のスペイン・ハプスブルク家に対する反乱 (en:Dutch Revolt) が起きた1566年あるいは1568年とする研究家も多い。初期フランドル派の活動時期はイタリアの初期・盛期ルネサンスとほぼ合致する。しかし中央イタリアの古典古代の復興(ルネサンス人文主義)を背景とするイタリアルネサンス絵画とは別個の美術様式であるとみなされている。初期フランドル派の画家たちは、それまでの北ヨーロッパ中世美術の集大成とルネサンス理念からの影響とを融合させた作品を産みだした。その結果、作品の美術様式としては初期ルネサンスと後期ゴシックの両方にカテゴライズされることもある。

初期フランドル派の重要な芸術家として、ロベルト・カンピン、ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンディルク・ボウツペトルス・クリストゥスハンス・メムリンクフーホ・ファン・デル・フースヒエロニムス・ボスらの名前が挙げられる。このような初期フランドル派の芸術家たちによって、美術における自然主義的表現と、美術作品とその観覧者に一体感を持たせるような仮想画面空間の構築手法 (en:Illusionism (art)) は飛躍的な進歩をみせ、さらに作品に複雑な寓意を持たせる技法が発展していった。絵画作品としてはキリスト教の宗教画や小規模な肖像画が多く、物語性のある絵画や神話画はほとんど描かれなかった。風景画は独自の発展を遂げており、単独で描かれることもあったが、16世紀初頭までは肖像画や宗教画の背景の一部として小さく描かれることのほうが多かった。支持体に木板を使用して油彩で描かれた板絵が多く、一枚の板からなる作品、あるいは複数枚の板を組み合わせた三連祭壇画多翼祭壇画などが制作されている。初期フランドル派の芸術家たちは、絵画作品以外にも彫刻タペストリー装飾写本ステンドグラスなども制作しており、美術史上重要な作品も多い。

初期フランドル派の活動時期はブルゴーニュ公国がヨーロッパ中に大きな影響力を持っていた時代とも合致する。当時のネーデルラントはヨーロッパ政治経済の中心地であり、また、高い芸術的技能を誇る高級品の一大産地でもあった。徒弟制度と工房を活用した制作手法によって多くの芸術品を生産することが可能で、諸国の王侯貴族からの直接注文、公開市場のどちらにも良質な作品を供給することができた。極めて多くの芸術作品がこの時期に制作されたが、16世紀半ばにオランダを中心に発生したビルダーシュトゥルム(en)と呼ばれる偶像破壊運動(イコノクラスム)で多くの作品が破壊されたために、現存しているのはわずか千点あまりに過ぎない。さらに、1600年代半ばのマニエリスムの勃興とともに初期フランドル派の作品は流行から外れ、大衆からの人気は衰え、その結果、現在に伝わる初期フランドル派の作品に関する公式な資料、記録がほとんど存在しない。最重要視される芸術家の情報でさえもほぼ散逸する事態が生じた。初期フランドル派が再評価が始まるのは19世紀半ばである。その後美術史家たちの一世紀以上にわたる研究により、作者の特定、作品にこめられた寓意や象徴の解釈、主要な芸術家の生涯などが解明されつつある。しかしながら、重要な作品の作者については今なお大きな議論の的となっている。
用語と領域1432年にヤン・ファン・エイクが完成させた『ヘントの祭壇画』。この作品と装飾写本の『トリノ=ミラノ時祷書』が、初期フランドル派最初の重要な作品だと見なされている。

「初期フランドル派」は、ブルゴーニュ公国の統治下にあった15世紀から16世紀のネーデルラントで発展した絵画作品と、その作者たる画家を意味する用語として使用されることが多い[3]。初期フランドル派の芸術家たちは、この時代の北ヨーロッパでそれまでの中世ゴシック様式から徐々に脱却し、北方ルネサンスと称される新たな美術様式を創りあげていった。当時の政治的観点ならびに美術史的観点から見れば、ブルゴーニュ公国の文化の影響は、現在のフランス、ドイツ、ベルギー、オランダに渡る地域にまで波及していた[4]

「初期フランドル派」はさまざまな呼ばれ方をすることがある。「後期ゴシック派」は中世絵画との連続性を重視する立場の用語で、フランス語起源の「初期フランドル派」という用語は、19世紀まで続くフランドルの伝統的芸術の一期間を示すとする立場である[5]。1900年代初頭の英語圏諸国では「ヘント=ブルッヘ派 (en:Ghent-Bruges school)」や「旧ネーデルラント派 (Old Netherlandish school)」と呼ばれることが多かった。「初期フランドル派 (Flemish Primitives)」は、もともとフランス語での伝統的な美術史用語で[6]1902年以降に有名になった呼称であり[7][† 2]、とくにオランダとドイツでは現在でもこの名称が主に使用されている[5]。初期フランドル派の「初期」という言葉は粗野で洗練されていないということを表しているのではなく、初期フランドル派の画家たちが新しい絵画の歴史、例えばテンペラから油彩への転換などにおける原点ともいえる存在であることを意味する。ドイツの美術史家エルヴィン・パノフスキーは、もともとは音楽用語である「アルス・ノーヴァ(新しい芸術)」や「ヌーベル・プラティーク(新たな技法)」という用語を使用することにより、初期フランドル派と当時のブルゴーニュ宮廷で人気のあったギヨーム・デュファイジル・バンショワといった先進的な作曲家たちとを関連付けている[8]。ヴァロワ=ブルゴーニュ公家がネーデルラントの統治を確立すると、ネーデルラントはより国際都市的な変貌を遂げ始めた[9]。オーストリア人美術史家オットー・ペヒト (en:Otto Pacht) は、1406年から1420年にかけて芸術の分野でも同様の事象が発生したとし、「絵画に大変革が起きた」、芸術に写実主義という「新たな美」が顕現したと指摘している[10]1477年当時のブルゴーニュ公国の地図。ブルゴーニュ公国は15世紀にヴァロワ=ブルゴーニュ家が政治的に統治していた地域で、フランドル北部とネーデルラント王国南部も含まれる。芸術の中心地だったのは15世紀に栄えたブルッヘとヘント、16世紀に栄えたアントワープである[11]

19世紀時点では初期フランドル派に関する研究が十分に進んでいなかった。


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