列島改造ブーム
[Wikipedia|▼Menu]

『日本列島改造論』
(にほんれっとうかいぞうろん)
著者
田中角栄
訳者秦新
発行日1972年6月20日
1972年9月(中国語版)
発行元日刊工業新聞社
商務印書館(中国語版)
ジャンル産業政策行政・総合開発
日本
中国
言語日本語
中国語
形態上製本
ページ数219
コード全国書誌番号:.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}70000513
ISBN 4-526-03467-3

ウィキポータル 政治学
ウィキポータル 技術と産業
ウィキポータル 経済学

[ ウィキデータ項目を編集 ]

テンプレートを表示

日本列島改造論(にほんれっとうかいぞうろん[1])は、田中角栄自由民主党総裁選挙を翌月に控えた1972年昭和47年)6月11日に発表した政策綱領、およびそれを著した同名の著書[注釈 1]。略して列島改造論ともいった。

田中はこの「工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる “地方分散” を推進すること」を主旨とした事実上の政権公約を掲げて同年7月の総裁選で勝利し、内閣総理大臣となった。

『日本列島改造論』(全国書誌番号:70000513、ISBN 4-526-03467-3)は、1972年(昭和47年)6月20日に日刊工業新聞社から刊行された。田中が総理の座を射止めたこともあって当初91万部を売り上げ、年間第4位[4]ベストセラーとなった。

1968年(昭和43年)に田中が自由民主党都市政策調査会長として発表した「都市政策大綱」をベースとしており、「都市政策大綱」には、後に国土事務次官となる下河辺淳自治官僚であった武村正義らが深く関与している。
主旨

『日本列島改造論』には、日本列島高速道路新幹線本州四国連絡橋などの高速交通網で結び、地方の工業化を促進し、過疎過密の問題と公害の問題を同時に解決する、などといった田中の持論が、イタリアアメリカの例を引いて展開されている。

国土のうち、北部を工業地帯に、南部を農業地帯にすべきであるという主張(日本の現状は逆)には、田中の出身地で選挙地盤の新潟県中越地方、特にその中心都市の長岡市が日本の北部にあるという状況に起因すると考えられている。豪雪地帯貧困の解消は田中の悲願だった。また、電力事業における火力発電から原子力発電への転換についても言及されている。
田中内閣での施策

第1次田中内閣が発足すると、田中は首相の私的諮問機関として日本列島改造問題懇談会を設置し、1972年8月7日の第1回を皮切りに会合を重ねた。当初75名だった懇談会の委員は途中で90名に増員された。グリーンピア構想は列島改造論に促されて具体化し、同年8月に厚生省年金局大蔵省理財局がグリーンピア設置に合意した。同年9月には総理府政府広報室が列島改造論について「知っているか・主要点の賛否・期待」などについて面接聴取している。青函連絡船の洞爺丸事故を機に1961年から建設中だった青函トンネル掘削工事は、異常出水などで多くの殉職者を出し困難な鉄道建設事業だったが、首相の「本州から北海道まで、金に糸目をつけずに掘れ」の一言で予算が増額されたことで工事は徐々に軌道に乗り始め、18年を要して後に1988年に開通した。

これらに触発されて日本列島改造ブーム(列島改造ブーム、列島改造景気[注釈 2][注釈 3][5])が起き[6]、列島改造論で開発の候補地に挙げられた地域では投機家によって土地の買い占めが行われて不動産ブームが起き、地価が急激に上昇した。この影響で物価が上昇してインフレーションが発生し、1973年(昭和48年)春頃には物価高が社会問題化した。

これに対して政府は「物価安定七項目」を対策として打ち出し、生活関連物資等の買占め及び売惜しみに対する緊急措置に関する法律を制定し、公定歩合を4回にわたって引き上げるなどしたが、十分な効果は上がらなかった。その一方で列島改造論の柱の一つとなっていた新幹線については、建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画への追加が検討され、候補に挙げられた地域の関係者や国会議員が活発な誘致運動を繰り広げた結果、同年11月15日に運輸省告示で11路線を追加することが決まった。列島改造論で取り上げられた本州四国連絡橋の基本計画が指示されたのも同年9月のことである。

しかしその最中に勃発した第四次中東戦争を契機に発生したオイルショックは、物価と経済に決定的な打撃を与え「狂乱物価」と呼ばれる様相を呈するに至った。この影響で、5日後に迫った本州四国連絡橋の着工は同年11月20日に延期が決定した。

そして同年11月23日に愛知揆一大蔵大臣が急死すると、田中は内閣改造に踏み切り第2次田中角栄内閣が発足。後任の大蔵大臣として、均衡財政論者で列島改造論を批判する福田赳夫を起用せざるを得なくなった。福田は総需要抑制策による経済安定化を図ることになり、列島改造論の施策は一定の後退を余儀なくされた。
首相辞任後の展開日本国有鉄道の営業収入,営業経費,累計欠損金(単位:億円)
列島改造後により極度に悪化し破綻した

1974年(昭和49年)12月に、田中は田中金脈問題内閣総理大臣の座を追われた。急激な積極財政・インフレーションオイルショックによる経済の混乱などもあり、首相となった福田による緊縮財政を経て交通網の整備は進まなくなった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:102 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef