.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}
「刈谷新駅」はこの項目へ転送されています。暫定名称として刈谷新駅と呼称された駅については「野田新町駅」をご覧ください。
「刈谷市駅」とは異なります。
刈谷駅
南口のAKARIYA、OTAビル、名鉄イン刈谷
(2022年11月)
かりや
Kariya
所在地愛知県刈谷市
所属事業者東海旅客鉄道(JR東海・駅詳細)
名古屋鉄道(名鉄・駅詳細)
テンプレートを表示
全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力
刈谷駅(かりやえき)は、愛知県刈谷市桜町一丁目および若松町一丁目にある、東海旅客鉄道(JR東海)・名古屋鉄道(名鉄)の駅である。 刈谷市の玄関口となる駅[1]で、JR東海の東海道本線、名鉄の三河線が乗り入れる。東海道本線にはCA58、三河線にはMU02の駅番号がそれぞれ設定されている。 東海道本線の豊橋駅 - 岐阜駅間では名古屋駅、金山駅に次いで乗車人員が多い主要駅である。南口側には名鉄三河線が乗り入れており、両駅を乗り換える利用客も多い[2]。以前は共同使用駅だったが1989年(平成元年)の橋上化により別々の改札口を設けるようになった[3]。 開業当時は中心市街地から離れた場所に立地していた[2]が、大正時代には豊田紡織[注釈 1] が駅付近に工場を設けたのを皮切りに系列企業の駅前進出が進み、刈谷駅の利用者増加および刈谷市の工業都市としての発展をもたらした[4]。現在では名実ともに刈谷市の中心地となっており、駅周辺の開発も進んでいる[2]。 1870年(明治3年)6月に実施された工部省による東海道沿いの調査によると、刈谷付近は逢妻川、境川などがある以外には特に鉄道建設について障害となるものはないと報告している[5]。1886年(明治19年)3月には武豊 - 熱田間が中山道幹線建設の資材運搬線として開通しているが、諸般の問題から7月にルートを中山道経由から東海道経由に変更され[5]、8月12日から30日の間に既設の大府村付近から下重原村までの測量が実施された[6]。 大府駅から岡崎駅までの間には、地理的に中間地点となる安城(箕輪村)に駅を設ける予定だったが、誘致運動の結果、大府 - 浜松間開業と同時に刈谷に駅を設けることができた[7](後に安城駅も開業)。運動当初、下重原村・高須村・半城土村の三村は、猿渡川と交差する下重原村字陣屋下に駅を設けるべく、1887年(明治20年)9月9日に勝間田稔(愛知県知事)へ停車場設置願を提出している[7]。これは鉄道と猿渡川水系の船運とを結びつけるためであった[6]が、付近は低地であり駅を設けると列車運転の支障となるため、話は進まなかった[7]。刈谷町字花捨付近など現在地より西寄りを要望する声もあった[6]。 他方、刈谷の商店街でも誘致の動きがあり、地元有力商人の太田平右衛門らが中心となって関係各局へ陳情を行った結果、現在地への駅設置が決定した[7]。当時の刈谷町中心地からは外れた場所であり、刈谷駅が開業した当時は駅前に何もなかったという。その閑散ぶりから野田村神楽山(現・三河安城駅付近)への駅移転が取り沙汰されたほどであり[7]、刈谷町は刈谷貨物運搬会社を興して刈谷駅に倉庫を設けたり[8]、駅前に旅館や寿司屋を急造させたりするなど駅前整備に努めた[7]。 刈谷駅移転論は駅整備により立ち消えとなった[7]ものの、1891年(明治24年)に安城駅が新設された影響で、刈谷に集積していた物資が安城へと流れるようになった[7][注釈 2]。
概要
歴史
官営鉄道の開通と刈谷駅誘致運動1921年頃の刈谷駅。
三河鉄道の開業と工場誘致1923年に刈谷へ進出した豊田紡織。その後の豊田系企業進出の礎となった。