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切り裂きジャック
Jack the Ripper
「怪しい人物を発見した自警団」イラストレイテド・ロンドン・ニュースの記事の挿絵(1888年10月13日)。
別名ホワイトチャペルの殺人鬼
レザー・エプロン
殺人
被害者数不明(一般に5人)
時期1888年-1891年?
(1888年:主要な5件)
現場ホワイトチャペル、スピタルフィールズ
ジャック・ザ・リッパー(Jack the Ripper)または、その訳で切り裂きジャック(きりさきジャック)とは、1888年にイギリス・ロンドンのホワイトチャペルとその周辺で犯行を繰り返した正体不明の連続殺人犯。当時の捜査記録やメディアでは「ホワイトチャペルの殺人鬼(Whitechapel Murderer)」や「レザー・エプロン(Leather Apron、革のエプロン)」とも呼ばれていた。
切り裂きジャックの標的となったのは、ロンドンのイーストエンドのスラムに住み、客を取っていた娼婦たちであった。被害者たちは喉を切られた後に、腹部も切られていたことが特徴であった。少なくとも3人の犠牲者からは内臓が取り出されていたことから、犯人は解剖学や外科学の知識があったと考えられている。1888年9月から10月にかけて、これらの事件が同一犯によるものという噂が高まり、メディアやロンドン警視庁(スコットランドヤード)には、犯人を名乗る人物からの多数の手紙が届いた。「切り裂きジャック(Jack the Ripper)」という名称は、犯人を名乗る人物が書いた手紙(「親愛なるボスへ(英語版)」)に載っていたものを、メディアが流布したことに端を発している。この手紙は、世間の注目を浴びて新聞の発行部数を増やすために記者が捏造したものではないかと疑われている。ホワイトチャペル自警団(英語版)のジョージ・ラスク(英語版)が受け取った「地獄より」の手紙(英語版)には犠牲者の1人から採取したとされる保存された人間の腎臓の半分が添付されていた。このような一連の経緯によって世間は「切り裂きジャック」という一人の連続殺人鬼を信じるようになっていったが、その主因は、犯行が非常に残忍なものであったことと、それをメディアが大々的に報道したことによるものであった。
新聞で大々的に報道されたことにより、切り裂きジャックは世界的にほぼ永久的に有名となり、その伝説は確固たるものとなった。当時の警察は1888年から1891年にかけてホワイトチャペルとスピタルフィールズで発生した11件の残忍な連続殺人事件を「ホワイトチャペル殺人事件」として一括りにしていたが、そのすべてを切り裂きジャックによる同一犯の犯行と見なしていたわけではなかった。今日において確実にジャックの犯行とされるものは1888年8月31日から11月9日の間に起きた「カノニカル・ファイブ(canonical five)」と呼ばれる5件、すなわち、メアリー・アン・ニコルズ、アニー・チャップマン、エリザベス・ストライド、キャサリン・エドウッズ、メアリー・ジェーン・ケリーが被害者となったものである。これら殺人事件は未解決のままであり、現代におけるジャックの逸話は歴史研究、民間伝承、偽史が混ざりあったものとなっている。
背景切り裂きジャックによる2名の犠牲者の殺害現場からほど近いホワイトチャペルの簡易宿泊所(英語版)前にたむろする女子供たち[1]。
19世紀半ば、イギリスではアイルランド系移民の流入によってロンドンのイーストエンドを始めとする主要都市の人口が増加した。1882年からはロシアなど東欧や他の地域での迫害(ポグロム)から逃れてきたユダヤ人難民が同じ地域に移民してきた[2]。イーストエンドにあるホワイトチャペル教区はますます過密状態になり、人口は1888年までに約80,000人に増加した[3]。これは労働条件や住宅事情の悪化をもたらし、極めて大きな経済的な下層階級が生まれた[4]。この場所で生まれた子供の55%が5歳を前に亡くなっていた[5]。強盗、暴力、アルコール依存症は日常茶飯事のことであり[3]、貧困が風土病のように蔓延し、多くの女性たちは日々の生計を立てるために売春をしていた[6]。
当時のロンドン警視庁(スコットランドヤード)の推計によれば、1888年10月のホワイトチャペルには62の売春宿と1,200人の売春婦が働いており[7]、また233の簡易宿泊所(英語版)には毎晩約8,500人が寝泊まりし[3]、1泊あたりシングルベッドであれば4ペンス[8]、寮に張られたロープ「リーン・トゥ」(Hang-over)の場合は1人2ペンスであった[9]。