凡例分部光謙
分部光謙
時代江戸時代末期 - 昭和時代中期
生誕文久2年11月3日(1862年12月23日)
死没1944年(昭和19年)11月29日
享年83(満81歳没)
改名作之進[1]、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}光明(初名)[要出典]、光謙
戒名普宏院殿心源宗徹大居士[要出典][注釈 1]
墓所滋賀県高島市勝野の円光寺
官位従五位、従四位、子爵
幕府江戸幕府
主君徳川慶喜 → 明治天皇
藩近江大溝藩知事
氏族分部氏
父母分部光貞
兄弟光謙、久爾子 ら
妻銀姫(溝口直溥の娘)
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分部 光謙(わけべ みつのり)は、明治時代の大名・華族(子爵)[1]。近江国大溝藩第2代知藩事。版籍奉還後、9歳で家督を相続したが、翌年に大溝藩は廃藩を願い出ており、在職約1年で知藩事を免職された。長じて競馬に傾倒し、草創期の日本競馬界で最大の個人馬主となるなど目立つ存在となったが、家産を傾けたことなどが問題となり、1902年に爵位を返上した。その後は旧領地の大溝(現在の滋賀県高島市)に暮らして長命を保ち、1944年に83歳で没した。藩主および知藩事の地位にあった者(大名)としては最後まで生きた人物である。 文久2年11月3日(1862年12月23日)[1]、11代藩主・分部光貞の次男として誕生した[1]。 明治3年4月25日(1870年5月25日)、父・光貞の死去により9歳で家督を相続する。4月28日(5月28日)、従五位を授けられる(後に従四位に昇進)。相続の時点で既に版籍奉還後であり、相続から4日後の4月29日(5月29日)に大溝藩知事に就任するが、大溝藩の財政は負債が年収の数倍に達し、極めて悪化していた。明治4年6月23日(1871年8月9日)、廃藩置県に先立ち廃藩願いを受理されて知藩事免職となり、大溝藩は大津県に編入される。なお、狭山藩(北条家)や鞠山藩(酒井家)といった小藩も財政悪化によって廃藩置県以前に廃藩を行っている。 知藩事を辞した後、光謙は東京府へ移って学習院へ入学し、学士の資格を取得する[注釈 2]。1884年(明治17年)7月、華族令により子爵を授けられる。鹿鳴館時代には社交界の花形と言われたといい、貴族院議員に立候補するなどしたという[3]。 その後、光謙は競馬にのめり込み、当時最強の名馬とも言われた「岩川」など多数の馬を所有する日本最大の馬主となり、自らも騎手として活躍した(後述)。しかしこうした光謙の浪費により、分部家は経済的に行き詰まっていく。1886年(明治19年)11月8日、東京始審裁判所で身代限りを申し渡されている。さらに1887年(明治20年)7月4日、家産の浪費により華族の品位を汚したたとして、謹慎10日の処分を受けている。 1902年(明治35年)7月11日、光謙は子爵を返上した。収監も経験しているが[4]、獄中で聖書と内村鑑三の著書に出会って人生観を変えたという[4]。1908年(明治41年)に旧藩地に戻り、後半生は高島で送った[5]。旧領とはいえすでに屋敷もなく、仮住まいであったが、聖書研究の会や、青少年を対象とした英語の塾を開いた[4]。 1909年(明治42年)に自宅ではじめた[6]聖書研究会は間もなく「日本聖公会大溝講義所」[注釈 3]に発展し、分部夫妻[注釈 4]をはじめ10名ほどが受洗した[4]。しかし1912年(明治45年)には素封家の福井邦蔵
生涯
最後の大溝藩知事
青年時代
爵位返上と大溝での後半生