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分裂選挙(ぶんれつせんきょ)は、同一の政党、派閥などが同一の選挙区で候補者を二分して行う選挙のことである。 ある政党本部が某選挙区で候補者Aを推薦、しかし、政党の地方支部が別の候補者Bを推薦する。通常は本部と地方支部との間で話し合いや調整が行われ候補者を一本化するが、話し合いに応じず(決裂し)候補者AとBが同じ選挙区で立候補してしまうことにより票が分裂してしまう。それによって候補者間のみぞが浮き彫りになったり選挙自体も票の分裂で第三の候補が当選してしまう可能性を秘めている。 1950年代に日本社会党がサンフランシスコ講和条約への賛否や、日本の再軍備などをめぐり左派と右派に分裂、統一を繰り返した。1955年に再統一するまでの間に行われた選挙では左派と右派2つの政党が候補者を立てていたため事実上の分裂選挙となっている。詳細は「日本社会党」を参照 1970年代に自由民主党の派閥横断的に結成された保守派の衆参両若手議員の集まりであった青嵐会は自由民主党執行部(田中金権政治)に反発、第10回参議院議員通常選挙において党の方針に反発し、青嵐会独自の候補者を擁立、選挙戦に臨んだ[1]、特に北海道選挙区では河口陽一・西田信一の両現職公認に不満を持った青嵐会の浜田幸一・武部勤らが高橋辰夫の出馬を強行した結果、保守票が分散し3名とも共倒れとなり全員落選した[2]。その得票数や影響力を重く見た自民党執行部は青嵐会を処罰しないことを決定した[3]。 1974年の第10回参議院議員通常選挙において、1人区の徳島県選挙区には現職の久次米健太郎がいたが、当時の田中角栄首相は現職を優先するという不文律に反し内閣官房副長官であった後藤田正晴を自民党公認候補とし、現職の久次米に公認を出さなかった。徳島選挙区は三木派を率いる三木武夫の地元であり、久次米は「三木武夫の城代家老」と呼ばれていた三木側近の一人であったことから、三木は田中の決定に猛反発し、派閥をあげて党公認候補後藤田の対立候補である久次米の選挙戦を支援し保守陣営が分裂する選挙戦となった。 結果的には無所属で出馬した現職の久次米が当選し、後藤田は落選した。この選挙以後、長きにわたって徳島県では三木系と後藤田系が国政や徳島県政を巡って自民党が完全に分裂状態になり、県議会の会派も別々となり、その後の徳島知事選でも分裂選挙となった。詳細は「阿波戦争」を参照 現職の鈴木俊一は自身の年齢や多選批判を受けていた。自民党本部は中央の意のままにならぬ鈴木に引導を渡すため、鈴木に引退を促したが鈴木が拒否、また自民党東京都連は鈴木の続投を支持し、民社党都連も鈴木支持に回った。そのため自民党本部は公明党・民社党と共同でNHK報道局長の磯村尚徳を擁立した。表面上は鈴木も磯村も無所属であったが自民党本部対東京都連の代理戦争となっていたため分裂選挙となった。民社党や公明党も分裂選挙になった他、民社党と協力体制にあったスポーツ平和党のアントニオ猪木も一時都知事選出馬を表明した(後に出馬撤回)。結果は現職の鈴木が当選し、当時自由民主党幹事長だった小沢一郎は責任を取り幹事長を辞任した。詳細は「1991年東京都知事選挙」を参照 自民党の派閥争いに敗れた小沢一郎のグループ改革フォーラム21が野党の提出した内閣不信任決議案に造反し賛成票を投じた。結果不信任案は可決、衆議院を解散し選挙になった。当初、小沢グループは自民党内に残り選挙戦を戦う予定であったが、不信任案に反対した武村正義、鳩山由紀夫などが自民党を離党し「新党さきがけ」を結成したため小沢グループは自民党を離党し「新生党」を結党した。
概要
日本における分裂選挙の例
日本社会党の例
青嵐会の例
阿波戦争
1991年東京都知事選挙
1993年衆議院選挙
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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