分子論の歴史
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H2O分子の空間充填モデル

化学における分子論の歴史(ぶんしろんのれきし、: history of molecular theory)は、2つ以上の原子の間に強い化学結合が存在するという概念や考え方の起源をたどるものである。
前史

現代の分子の概念は、レウキッポスデモクリトスなど、すべての宇宙は原子と空隙で構成されていると主張した科学以前のギリシャの哲学者までさかのぼることができる。紀元前450年頃、エンペドクレスは、基本元素)、)、空気)、))と、それらの元素が相互作用する引力と斥力という「力(forces)」を想像した。それ以前にヘラクレイトスは、火と変化は相反する性質の組み合わせによって生じる結果であり、人間の存在の根源であると主張していた[1]プラトンは『ティマイオス』において、ピタゴラスに倣(なら)って、数、点、線、三角形などの数学的基礎をこの儚い(はかない)世界の基本構成単位あるいは要素とし、火、空気、水、土の四元素を真の数学的原理あるいは要素の中間にある物質の状態として考えた[2]。5番目の元素である「不壊(ふえ)の真髄」であるエーテルは、天体の基本的な構成要素と考えられていた。レウキッポスやエンペドクレスの視点は、エーテルとともにアリストテレスに受け入れられ、中世およびルネサンス期のヨーロッパに受け継がれた。19世紀には、純粋な化学元素や水素や酸素などの異なる化学元素の個々の原子が結合して、水分子のような化学的に安定した分子を形成することが実験的に証明され、分子の近代的な概念が発展し始めた。
17世紀

原子の形や結合性に関する最古の考え方は、レウキッポスデモクリトスエピクロスによって提唱されたもので、彼らは物質の固さは関係する原子の形に対応すると推論している。たとえば、鉄の原子はフック(鉤、かぎ)を持ち、しっかりと噛み合っている固体で、水の原子は滑らかで滑りやすく、塩の原子は味が鋭く尖っていて、空気の原子は軽くて渦を巻き、他のすべての物質に浸透しているという[3]。この考えの主唱者はデモクリトスであった。彼は、感覚に基づく類推によって、原子をその形、大きさ、および部品の配置によって区別し、原子の姿を図示した。さらに、結合は原子に備わった連結器による物質的結合で説明された。これには、フックアンドアイ(鉤と目)もあれば、ボールアンドソケット(球と球受け)もあった(図を参照)[4]フックアンドアイ(hook-and-eye)モデルが水分子を表現していたのかもしれない。レウキッポスデモクリトスエピクロスルクレティウスガッサンディは、このような概念を固守した。水の組成はアボガドロ(1811年)以前には知られていなかったことに留意のこと。

スコラ学の台頭とローマ帝国の衰退により、さまざまな四元素説やその後の錬金術説が支持されるようになり、原子論は長い間放棄された。しかし、17世紀になると、ガッサンディアイザック・ニュートンの業績を中心に原子論が復活した。ガッサンディは、当時の科学者の中でも特に古代史を深く研究して、エピクロスの自然哲学に関する大著を書き、説得力のある支持者として活躍した。彼は、空洞内を移動する原子の大きさや形を説明することで、物質の性質を説明できると推論した。熱さは小さくて丸い原子によるもので、寒さは先端が尖った角錐型の原子によるもので、これが厳しい冷たさによる刺痛を説明し、固体はフックが互いに噛み合うことで結合している[5]。ニュートンは、当時流行していた「フック型原子」、「接着型原子」(静止状態の物体)、「共同運動による結合」などのさまざまな原子結合論を認め、有名な著書『光学(Opticks)』(1704年)の「問31」で、粒子は何らかの力で互いに引き合い『直接接触すると非常に強く、短い距離では化学操作を起こし、粒子から遠くないところまで届いて何らかの影響を及ぼす』とむしろ信じていた[6]

しかし、より具体的には、「分子(molecule)」、すなわち原子が結合した集合体や単位という概念は、ロバート・ボイルが1661年に出版した有名な著書『懐疑的化学者(The Sceptical Chymist)』の中で、『物質は微粒子の集団から構成されており、化学変化はその集団の再編成によって生じる』とした彼の仮説に端を発している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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