分倍河原駅
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分倍河原駅
駅舎(2019年9月)
ぶばいがわら
Bubaigawara


所在地東京都府中市片町二丁目21-18
所属事業者

京王電鉄(京王・駅詳細

東日本旅客鉄道(JR東日本・駅詳細

備考共同使用駅(京王電鉄の管轄駅)
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分倍河原駅(ぶばいがわらえき)は、東京都府中市片町二丁目にある、京王電鉄東日本旅客鉄道(JR東日本)のである。
概要

京王電鉄の京王線と、JR東日本の南武線が乗り入れており、計2社2路線の接続駅である。京王線には「KO25」、南武線には「JN 21」の駅番号がそれぞれ付与されている。

両社が構内を共用する共同使用駅で、出札改札ともに京王電鉄の管轄下にあり、JR東日本の駅員は配置されていない。京王電鉄は京王中央管区所属で、JR東日本の駅設備は立川営業統括センターが管理している。

2007年6月までは、南武線川崎 - 立川間で唯一みどりの窓口が設置されていない駅だったが、それ以降、南武線の一部の他駅でもみどりの窓口が廃止された。代替として定期券指定席券売機が設置されている駅が多いが、当駅には設置されていない。特急券指定席券特別企画乗車券などの発売はしておらず、当駅発着の遠距離乗車券(片道・往復の補充券、ただし前売りは不可)、券売機で発売できない一部の回数券や当駅発着の定期券を定期券売り場で発売していたが、2019年4月12日をもって閉鎖となり、京王の定期やJR単独の磁気定期券は窓口での発売が終了となった。現在は多機能券売機で京王の定期券を発売する。JRは上記の通り定期券は発売終了、その他の乗車券は従来通り近距離券売機にて発売しており、券売機では対応できない長距離の乗車券は改札窓口にて発売していたが、2022年3月31日で発売を終了した。

当駅は自動改札機の導入が京王の他駅に比べて大幅に遅れたため、イオカードは入・出場も自動券売機での使用もできない時期が長く続いた。自動改札機が導入されるまでは、京王線コンコースと南武線コンコースとの間に連絡改札はなかった。
歴史
京王電鉄

1925年大正14年)3月24日:玉南電気鉄道の屋敷分(やしきぶん)駅が開業[1]

1926年(大正15年)12月1日:合併により京王電気軌道の駅となる[2]

1929年昭和4年)

3月12日:南武鉄道との連絡のため移転[1]

5月1日:分倍河原駅に改称[1]


1944年(昭和19年)5月31日陸上交通事業調整法による戦時合併により東京急行電鉄大東急)の駅となる[2]

1948年(昭和23年)6月1日:東急からの分離独立により京王帝都電鉄(現:京王電鉄)の駅となる[2]

2001年平成13年)3月27日ダイヤ改定により準特急が新設され、準特急停車駅となる[報道 1][3]

2007年(平成19年)3月18日ICカードPASMO」の利用が可能となる[報道 2]

2013年(平成25年)2月22日:ダイヤ改正により特急停車駅となり、全列車停車駅となる[報道 3]

2018年(平成30年)2月22日ダイヤ改正により下り京王ライナーが新設され、停車駅となる[報道 4]。当駅からは座席指定券なしで乗車可能。

2019年(平成31年)

2月22日:ダイヤ改正により上り京王ライナーが新設され、停車駅となる[報道 5]。上りでは座席指定券が必要となる(下りは引き続き座席指定券不要)。

4月12日:定期券うりばの営業を終了。


JR東日本

1928年(昭和3年)12月11日:南武鉄道線(現・南武線)が大丸停留場(現・南多摩駅)から延伸開業、その終着駅として屋敷分駅が開業[4]

1929年(昭和4年)

12月11日:南武鉄道線が立川駅まで開通[4]

12月下旬:分倍河原駅に改称(正確な日付は不明)。


1944年(昭和19年)4月1日:南武鉄道線が改正陸運統制令に基づく戦時買収により国有化され、運輸通信省南武線の駅となる[4]。貨物取扱廃止。

1966年(昭和41年)9月30日:稲城長沼 - 谷保間複線化完成[4]。現下りホーム新設(使用開始の日付は不明)。

1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる[4]

2000年平成12年)3月28日:京王連絡口に自動改札機を設置し、供用開始[5]

2001年(平成13年)11月18日ICカードSuica」の利用が可能となる[報道 6]

2011年(平成23年)

4月9日:復活した南武線快速[6]の停車駅となる。当初は3月12日から開始予定だったが、東日本大震災の影響により延期となった[7]

6月24日:平日の快速運転を休止[報道 7]

9月12日:平日の快速運転再開。


駅名の由来駅前の新田義貞之像富永直樹

最初の駅名となった「屋敷分」とは、当時の地名(屋敷分村)から名付けられたもの。

改名された分倍河原は「分倍」と「河原」の複合地名で過去の歴史に基づく。1333年元弘3年)5月に鎌倉幕府を倒すために挙兵した新田義貞と、幕府側の北条泰家が戦った「分梅古戦場」(分倍河原古戦場)という古戦場跡があり、駅前ロータリーには新田義貞の像がある。なお、1454年享徳4年)にもこの地で鎌倉公方足利成氏関東管領上杉氏を破った合戦が行われている。


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