刀狩
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刀狩(かたながり、刀狩り)は、日本の歴史において、武士以外の僧侶や農民などに、武器の所有を放棄させた政策である。

鎌倉時代1228年安貞2年)に、第3代執権北条泰時高野山の僧侶に対して行ったものが、日本史記録上の初見で[1]、後に1242年仁治3年)には、鎌倉市中内の僧侶とその従者(稚児中間、寺侍、力者など)に帯刀を禁止する腰刀停止令を出し、違反者の刀剣は没収し大仏に寄付するとした[2]。また1250年建長2年)に第5代執権北条時頼は範囲を拡大し、市中の庶民の帯刀と総員の夜間弓矢の所持を禁止した(『吾妻鏡』)[3]

戦国時代には諸大名によって行われている[1]。天下を統一しつつあった豊臣秀吉安土桃山時代1588年8月29日天正16年7月8日)に布告した刀狩令(同時に海賊停止令)が特に知られており、全国単位で兵農分離を進めた政策となった。

柴田勝家も、1575年から翌年にかけて越前国一向一揆の鎮圧のために武器の奨励と没収を行ったことがある(後述)。
刀の神聖視と習俗と刀狩

刀は、神聖視されて神社の神体となったり信仰の対象ともなった。一般的な通念と違い、騎馬上で刀や槍を振るうことは無く、騎馬白兵戦は無かった[4]。14世紀に一時騎馬での刀戦が行われたが、小型の日本馬の馬上では難しく馬も傷つきやすいので、すぐに馬から降りて戦うようになった。戦傷も矢疵がほとんどで、中心は矢戦での遠距離戦だった。首を取るための近接戦闘の場合に刀戦となり、これが日本の合戦で白兵戦中心だとのイメージとして伝わった[5]。しかし、前線でもあくまで騎馬弓兵が中心で、刀は本来戦闘での主役ではなかった。だが、早くから武士にとって刀は武の象徴とされ、織田信長豊臣秀吉徳川家康も、戦力や現実の使用を超えて名刀を集めていた。後述のように500万本もの刀が太平洋戦争後に存在したことは、刀が精神性を帯びたもので単なる武器で無かったことを表す[4]

そして16世紀には、近畿や関東で庶民にも15歳の成人祝いを「刀指」と呼んで脇差を帯びることが習俗となっていた。柳田國男の「日本農民史」によると、日向の椎葉村では「おとな百姓」の家は村の3分の1に上り、名字もあり帯刀する別の階級で、農業は他の「小百姓」に任せて、たえず戦争に参加し落ち武者狩りも行っていた。関東でも後北条氏の動員令では「侍(上層の農民)」でも「凡下((一般の農民)」でも弓、槍、鉄砲は自弁で、村の武装は参戦可能で当然としている[6]ルイス・フロイスは『日本史』で、文禄2年(1593年)の九州における豊臣政権による刀狩の記事で「日本では今日までの習慣として、農民を初めとしてすべての者がある年齢に達すると」大小の刀を帯刀し、刀と脇差と呼び重んじていて、取り上げられるのを悲しんだ、と記述している[7]。また中世近世で、農民の腰の指物は不可侵で、中世以後16世紀や17世紀の村の争いでも相手の脇差を奪うことは重大で犯罪とされた。中世以来、刀は農民にとって武装権とともに成人男性の人格と名誉の象徴であり、刀狩はそれを奪うということで大きな問題だった[6]
柴田勝家の越前刀行政

柴田勝家の農民の刀と武装に対する行政は、後の豊臣政権の刀狩とは意図や内容を異にしており、寺社と農民の武装を前提に、寺社と門徒を中心に武器の増減を行い、反本願寺派や織田家の縁社の武力を高め、元一揆側の刀を減少させることで地域に区別を明確にさせるとともに、元一揆側の力を削ごうとしている。越前一向一揆の総大将で事実上の守護下間頼照を織田軍が攻め、落城の際に逃亡するところを発見し討ち取った反本願寺派の真宗高田派の寺院と門徒に対しては、逆に武装を奨励している。1575年(天正3年)10月、真宗高田派の坂井郡黒目の称名寺に、門徒の地域の黒目村他4村に腰刀・武具での武装を命じ、翌1576年(天正4年)5月には同派の専修寺門徒にも同様の「兵具を備えて忠節を尽くすよう」指令している。同時期に同派の大野郡折立の称名寺には、より踏み込み「購入してでも帯刀するよう」指示している。

その一方で、総員13万8千余人の越前一揆のうち丹生郡と越前海岸辺は約3万5千人を出したが[8]、同年(天正4年)1月に丹生郡織田の寺社と関係者に対して、知行により刀の数量を決めて提出させる指令を出した。寺社は、知行に対する課役ととらえ、以前より知行高に対する諸役は免除されていることを理由に免除を願っている。

その中で、信長の先祖が神官で氏神で関係の深い織田神社へは対応が違い、領安堵の文書に、神社関係者に「刀さらへ」を免除するとした。これは後代に、江戸時代元禄期作の『明智軍記』に壮大に誇張して書かれ「九頭竜川に、刀狩の刀剣を溶かし鎖を作り船橋を渡した」という「船橋伝説」や「農具を製作した」などの説話が創作され、柴田神社に鎖が展示されるが、根拠は無い[9][10]。(以上本節[11]
豊臣氏の刀狩令現在の方広寺本尊盧舎那仏座像。往時の大仏(京の大仏)の1/10の大きさの模像と伝わる。

豊臣秀吉が1588年(天正16年)に発した刀狩令は次の3か条からなる。

第1条 百姓が脇差鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する。

第2条 取り上げた武器は、今つくっている方広寺大仏(京の大仏)のや、(かすがい)にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。

第3条 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。

また、没収された武器類は方広寺大仏(京の大仏)の材料とすることが喧伝された[注 1]

この刀狩り令の発給は、実質は九州諸侯と淡路国加藤嘉明などの近侍大名・武将の一部、畿内・近国と主要寺社に限られる。だが、豊臣政権の法令は、天正18年(1590年)8月10日の後北条氏の殲滅後の奥州仕置の諸政策総覧の確認のための石田三成あて朱印状では、刀狩りで「刀類と銃の百姓の所持は日本全国に禁止し没収した、今後出羽・奥州両国も同様に命じる」とされ、秀吉は、基本的な法令を含め全国諸侯には出さないが、一度発布した法令は全国に適用し、どこの大名と各地域も拘束するものと捉えていた[13]

秀吉は、関白就任3か月前の1585年天正13年)3月から4月に根来衆雑賀一揆制圧戦で、戦参加の百姓を武装解除が前提で助命し耕作の専念を強いる、第1条、第3条に類似する指令を出して、すでに政策の原型はできており、歴史家の藤木久志から「原刀狩令」と名付けられている[14]。同年6月にも高野山の僧侶に対して同様の武装放棄と仏事専念を指令し、10月実行させた。

多聞院日記』などでは、政策の主目的が一揆(盟約による政治共同体)の防止であったと記されている。当時の百姓身分の自治組織である惣村は膨大な武器を所有しており、相互に「一揆」の盟約を結んで団結し、領主の支配に対して大きな抵抗力を持つ存在だった。

ルイス・フロイスの『日本史』によると、刀狩に先立つ1587年(天正15年)にバテレン追放令が出された肥前国佐賀県長崎県)では、武装蜂起に備え武器を隠すのを防ぐために、刀鑑定の刀匠を派遣し「名刀を買いに来た事」を宣伝し、自慢の刀の価値を知ろうと集まった村人たちに、刀匠が持ち主や銘を聞き記録作成し、その記録を元に刀狩令を交付後100人近い役人を投入し16000本の刀を没収した。

ただ実際には、その他の槍、弓矢、害獣駆除のための鉄砲や祭祀に用いる武具などは所持を許可されていたともいわれている。そもそも秀吉の刀狩令は全面的武装解除を行うものではなく、農村に大量の武器が存在する事実を承認しつつ、村々百姓に武装権の行使を封印するよう求める趣旨のものであったとする研究がなされている[15]


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