函館大火
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函館大火(はこだてたいか)とは、北海道函館市で発生した大規模火災(大火)。

函館は明治から昭和戦前期にかけて少なくとも25件の大火に見舞われている[1]が、一般的に発生年を付さない場合には、死者2166名、焼損棟数11105棟を数える大惨事となった1934年昭和9年)3月21日の火災を指す。本項ではこの1934年の大火について詳述する。
概要

函館は平均風速が高く木造密集市街地が形成されていたため大火の危険性は高い。「昭和9年大火」以前より市当局や市民は防火対策には積極的に取り組んでいた。しかし「昭和9年大火」では有効に機能しなかった。主な防火対策は下記の通りである[2]

1878年(明治11年) - 道路拡幅

1880年(明治13年) - 十字路式の導入。二十間坂設置

1889年(明治22年) - 上下水道完成

1893年(明治26年) - 地下式消火栓設置

1907年(明治40年) - 公共建築物の大火構造化推進

函館の大火史
発生の年表

函館市における大火のうち、焼失戸数が1000戸以上となった例は次のとおりである[1]

年月日焼失戸数備考
1871年10月27日
明治4年9月12日)1123俗に切見世火事と云う。
1873年(明治6年)3月22日1314俗に家根屋火事という(死者5名)。
1879年(明治12年)12月6日2326焼跡に対しては前年同様道路の大改革を断行す。魚市場より要塞付近まで焼死者多数あり。
1896年(明治29年)8月26日2280俗にテコ婆火事という。
1899年(明治32年)9月15日2494
1907年(明治40年)8月25日8977上水道停水中
石川啄木子母澤寛などが被害に遭い、函館を去った。
1913年大正2年)5月4日1532上水道停水中
1916年(大正5年)8月2日1763上水道停水中
1921年(大正10年)4月14日2141上水道停水中
1934年(昭和9年)3月21日10176現場における死亡者数2054名。

大火と都市形成

函館の都市景観は、数度の大火の影響により街路や建築物が変容している[3]。つまり、二十間坂より函館西部地区の町並み以西の地区は、1878年(明治11年)、1879年(明治12年)の大火後の街区改正によってできた都市形態で、この地区の建物は1907年(明治40年)の大火で被災しているため、旧金森洋物店や旧開拓使函館支庁書籍庫など一部の耐火構造建築物を除くほとんどの建物はそれ以降の時期に建設されたものである。なお同地区は、歴史的環境を色濃く残しているところから1988年(昭和63年)9月16日に「歴史的景観地域」に指定され、現在では函館市都市景観形成地域として継承されている。旧函館区公会堂函館ハリストス正教会(いずれも国の重要文化財)などがこの地区に位置している。

また、十字街から新川町にかけてのグリーンベルトに代表される街路は、1934年(昭和9年)の大火後の復興事業によって形成されたもので、これは戦前における地方都市の都市計画が実施された数少ない事例である。なおこの地区の建物は、1921年(大正10年)の大火後に建設された耐火構造の建物が一部残っている他は1934年(昭和9年)以降のものである。このように函館の都市景観の特徴は、大火の被災範囲が東へ移行するのと併行しながらも都市景観が帯状に時間差を有して推移していることにある[4]
大火史上の主な被災建物
真宗大谷派函館別院
真宗大谷派函館別院は、1907年(明治40年)の函館大火で焼失したため、耐火建築により再建することになった。1915年(大正4年)11月に再建された本堂は日本で最初の鉄筋コンクリート造りの寺院建築となった[5]
豊川稲荷神社
明治3年、1899年(明治32年)、1907年(明治40年)、 1934年(昭和9年)の4回焼失[6]。一時函館八幡宮に仮奉遷されたが、1940年(昭和15年)に現在地に社殿が建立され、奉遷された[7]。詳細は「函館八幡宮#摂末社」を参照
函館市役所本庁舎(初代、函館区役所庁舎)
相馬哲平の用地及び資金の寄付を元に豊川町29番地および33番地に建設された函館区役所庁舎(1903年<明治36年>完成)を転用したが、昭和9年函館大火で焼失[8]。詳細は「函館市役所」を参照
函館測候所(現・函館地方気象台)
高砂町(現・若松町)にあったときに1913年(大正2年)に焼失[9]。詳細は「函館地方気象台」を参照
昭和9年函館大火の概要昭和9年函館大火の焼失地域(赤)。左隅の住吉町から出火し、大森浜に沿って湯川方面に広がった一方、港に沿って亀田方面には広がっていない

1934年(昭和9年)3月21日の火災は最大規模となった。
気象状況

中国華北地方をルーツにした低気圧が同国東北部を横断し、20日18時に日本海西部に進んだ[10]。翌21日(災害発生当日)朝に能登半島沖に進み、12時間で20ヘクトパスカル以上も気圧が下がるという急発達をしながら通過し[11]、函館市内は発火時推定南南西の風、最大瞬間風速39m(函館消防組調べ)に及ぶ強風に見舞われていた[12][13]

参考であるが、函館測候所(現・函館地方気象台、函館市の郊外の旧・亀田村→亀田町→亀田市→函館市美原)による計測では19時20分に最大風速「南南西の風24.2m」を記録した[13]気象予報士の饒村によると当時は最大瞬間風速を測定していなかったという。2020年(令和2年)の低気圧の最大瞬間風速は、最大風速14.7mの約2倍を計測している、当時の低気圧は南の海域でかつ、より発達したことから、もし測定していたら50mぐらいではと推定している[11](市長の対応の節も参照)。

低気圧の位置と気圧[11][14]

3月21日6時:能登半島沖 987ヘクトパスカル

3月21日正午秋田沖 981ヘクトパスカル

3月21日18時:函館西方 965ヘクトパスカル

3月22日オホーツク海 939ヘクトパスカル

火災発生直前

16時20分頃、風向が南南西に変化すると強風になった。17時頃に臨時休業する商店がでて、路線バスの運行見合わせが起きたが路面電車は運行されていた。17時50分頃からは市内6ヶ所で連続的に電線の短絡による火災が発生したが、火災報知器による通報出動で鎮火している。さらに風速は加速し、18時34分に全市が停電になった[15]NHK函館放送局によると19時すぎに放送局への電力供給が途絶えたという[16]
火災発生と延焼

18時53分頃、市域のほぼ南端に位置する住吉町で1軒の木造住宅が強風によって屋根が飛び、室内に吹き込んだ風で囲炉裏の火が吹き散らされ、瞬く間に燃え広がった[12]。火災報知網(火災報知器175基[17])の整備もしていたが、強風で断線して機能せず初期消火が遅れた上に[14]、木造家屋が密集する市街地20箇所以上で次々と延焼したため、手が付けられない状態となった。時間の経過とともに風向きは南から南西、そして西風へと時計回りに変っていったため火流もそれに従い向きを変え、最終的には市街地の3分の1が焼失する規模となった[18]

20世紀前半の災害であるが、現在も函館市民の記憶に留められる災害であり、2020年(令和2年)現在も火災発生日には慰霊祭が営まれている[19]


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