函館バス株式会社
Hakodate Bus Corporation函館バス本社
種類株式会社
市場情報非上場
略称函バス(かんバス、はこバス)
本社所在地 日本
〒040-0024
北海道函館市高盛町10-1
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度46分21.62秒 東経140度44分34.29秒 / 北緯41.7726722度 東経140.7428583度 / 41.7726722; 140.7428583
函館バス株式会社(はこだてバス)は、北海道函館市高盛町10-1に本社を置く企業。バス事業では奥尻町(奥尻島)を除く渡島・檜山管内全域2市14町に乗り入れるほか、不動産事業も行う。 渡島・檜山管内各地には15のバス事業者があり各々バスを運行していたが、太平洋戦争勃発により各種統制が敷かれガソリンなど物資不足が発生した。乱立気味であったバス事業者を統合するために北海道における旅客自動車運輸事業統合要綱が発表された。北海道内を7地域に分けた統合が進められ、函館地区14事業者の統合先として函館乗合自動車株式会社が設立されることになった。1943年(昭和18年)10月1日に仮営業を開始。翌1944年(昭和19年)4月12日に各社からの事業譲渡が許可され、同年6月1日付で設立登記し営業を開始した。なお、道南電気軌道は函館市へ事業譲渡交渉中であり、その譲渡交渉先である函館市は統合決定時にバス事業を行っていなかったため、除外されている[2]。 所有車両54台の中にはガソリン配給を得るためのダミー車両も相当数含まれており、従業員は14社からの寄せ集めであった。1945年(昭和20年)には従業員数88名に減少、翌1946年(昭和21年)には車両43台に減少した。物価高騰の影響もあり毎年のように運賃値上げと増資を繰り返していた。路線は着々と延伸を図り各地域に進出した。1948年(昭和23年)には奥尻島に進出したものの1952年(昭和27年)10月4日に廃止されている。1951年(昭和26年)7月3日に商号を函館バス株式会社に変更した[3]。 1954年(昭和29年)8月31日に函館バス労働組合(現:私鉄総連函館バス支部)が発足したが、これに対する会社側の対応を不服とし即日ストライキ(スト)に突入。妥結まで9月21日までの21日間を要した。1955年(昭和30年)には賃金引き上げを要求し7月6日にスト突入した。この時は8月26日の妥結までの51日間全路線運行停止となり、頻繁・長期化するストに業を煮やした沿線住民は函館バスに対して非難の声を上げ、国鉄バスに対して函館市乗り入れを陳情。函館市交通局(現・函館市企業局交通部)が大野・上磯方面と下海岸線の一部に、ハイヤー会社であった相互自動車が下海岸線に参入し、沿線自治体では貸切バスで輸送を行うなどの事態となった。上向きであった経営状況もストによる収入低下などが影響し危機を迎えることになり、同年行われた運輸省の監査では「稀に見る悪い会社」との酷評を受け改善を命じられた[3]。
歴史
函館乗合自動車設立まで
設立時の会社概要
本社所在地 - 北海道函館市松風町8
資本金 - 65万円
車両 - 54両
従業員数 - 114名
営業所 - 函館営業所(万代町、湯川、椴法華出張所)、江差営業所(東瀬棚、久遠、石崎、熊石、大野出張所)、鹿部営業所(尾札部、砂原出張所)、松前営業所(木古内、江良、涌元出張所)
統合元事業者 - 道南自動車、臨港バス、大沼電鉄、渡島海岸鉄道、渡島交運、大檜乗合自動車、熊石自動車、八雲熊石自動車、下海岸自動車、松前自動車、旭自動車、藤野自動車、水上自動車、藤谷自動車
戦後から昭和30年代