出雲阿国
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この項目では、歌舞伎の創始者といわれる人物について説明しています。その他の用法については「出雲阿国 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
出雲阿国出雲の阿国像(京都市東山区)

出雲 阿国(いずも の おくに、元亀3年(1572年) - 没年不明)は、日本における安土桃山時代江戸時代前期の女性芸能者。ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており[1]、このかぶき踊りが様々な変遷を経て、現在の大歌舞伎チンドン屋が出来上がったとされる[2]

一般的には、彼女による「阿国歌舞伎」の誕生には名古屋山三郎が関係しているとされ、「山三郎の亡霊の役を演じる男性とともに踊った」といった解説がなされることが多い[3]。お国が演じていたものは茶屋遊びを描いたエロティックなものであり、お国自身が遊女的な側面を持っていたという可能性も否定できない[4]

なお、現在では「出雲の阿国」「出雲のお国」と表記されることが一般的であるが、彼女の生存時の歴史資料にはこのような表記は発見されておらず、これらの表記は、口伝を筆記したもの、あるいは、17世紀後半以降、彼女が伝説化してから広まったものと考えられる[5]
生涯京都国立博物館収蔵『阿國歌舞伎圖屏風』六曲一隻、紙本金地著色(出雲阿国を描いた最古の屏風絵)。阿国歌舞伎発祥地

出雲国杵築中村の里の鍛冶中村(小村)三右衛門の娘であり、出雲大社の神前巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされている[6]

慶長5年(1600年)に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録(時慶卿記)があり、この「クニ」が3年後の慶長8年(1603年)に「かぶき踊」を始めたと考えられている[5]

当代記[7]によれば京で人気を得て伏見城に参上して度々踊ることがあったという。当初は四条河原の仮設小屋で興業を行っていたが、やがて北野天満宮に定舞台を張るに至った[8]

北野天満宮の祠官松梅院の僧禅昌は、阿国の芸と人物に対する最も理解のある有力な庇護者であった[9]

慶長8年(1603年)5月6日に女院御所で踊ったという記録があり、文献によって踊ったものの名称が「ヤヤコ跳」「ややこおとり」「かふきおとり」と異なっている[5]。この事と記述の内容から考えて、慶長8年5月からあまり遡らない時期にかぶき踊というあらたな名称が定着したと考えられている[5]。内容面でもかわいらしい少女の小歌踊と考えるややこ踊から、傾き者(かぶきもの)が茶屋の女と戯れる場面を含むようなものに質的に変化したと考えられている[5]

お国のかぶき踊りは、名古屋山三郎役の男装したお国と、茶屋の娘役として女装したお国の夫・三九朗[9]が濃密に戯れるものであった[8]。一座の他の踊り手も全て異性装を特徴としており、観客はその倒錯感に高揚し、最後には風流踊念仏踊りと同様に出演者と観客が入り乱れ熱狂的に踊って大団円となった[8]。このように、お国がかぶき踊りを創始するに際して念仏踊りを取り入れたとする記述が一般向けの解説書や高校生向けの資料集により一般的であるが(山川出版『詳細日本史図説』、『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』)、この従来説に対して、ややこ踊の一座やお国が念仏踊りを踊った可能性は低いと主張する者もいる[5]

阿国には夫の他に子供が存在していたといわれている。[9]

阿国は慶長12年(1607年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えた。慶長17年4月(1612年5月)に御所でかぶきが演じられたことがあり、阿国の一座によるものとする説もある[10]

没年は、慶長18年(1613年)、正保元年(1644年)、万治元年(1658年)など諸説あり、はっきりしない(二代目阿国がいたのではないかという説もある)。出雲に戻り尼になったという伝承もあり、出雲大社近くに阿国のものといわれる墓がある。また、京都大徳寺の三玄院にも同様に阿国のものといわれる墓があり、夫であった名古屋山三の墓と共に並んで供養されている。なお、旧暦4月15日(現在では新暦4月15日とも)が「阿国忌」といわれている。
阿国の与えた影響

お国一座は京都での人気が衰えると江戸を含め諸国を巡業したが、かぶき踊は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まった[4]。遊女歌舞伎は男装した遊女と遊女の猥雑な掛け合いに、お国一座にはなかった三味線による囃子が付いたもので、お客にとっては遊女の品定めの場であった[8]

寛永6年(1629年[11]、江戸幕府が、風紀紊乱の取り締まり、寺社で既に徹底されていた女人禁制との整合性、および、江戸時代になって制度としても全面的に強くなり始めていた男尊女卑女性差別)の傾向から、女性の芸能者が舞台に立つことを禁止したとされる[4]


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