立久恵線
立久恵線でハフ21として使われていた客車
日ノ丸自動車フ50
概要
現況廃止
起終点起点:出雲市駅
終点:出雲須佐駅
駅数11駅
運営
開業1932年12月12日 (1932-12-12)
廃止1965年2月18日 (1965-2-18)
所有者大社宮島鉄道→出雲鉄道→
一畑電気鉄道
使用車両車両の節を参照
路線諸元
路線総延長18.7 km (11.6 mi)
軌間1,067 mm (3 ft 6 in)
電化全線非電化
路線図
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停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
北松江線→
国鉄:山陰本線
0.0出雲市駅
立久恵線(たちくえせん)は、かつて出雲市の出雲市駅と島根県簸川郡佐田町(現:出雲市)にあった出雲須佐駅との間を神戸川(かんどがわ)沿いに結んでいた一畑電気鉄道の鉄道路線である。 出雲鉄道
路線データ
延長:18.7km
軌間:1,067mm
駅数:11駅(起終点駅を含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
歴史
(旧・大社宮島鉄道)
大社宮島鉄道社章
種類株式会社
本社所在地 日本
東京都東京市麹町区丸ノ内3丁目6番地(ユニオン館内)[1]
設立1926年(大正15年)6月10日[1]
業種鉄軌道業
事業内容旅客鉄道事業、自動車運輸業[1]
代表者社長 神戸徳太郎
資本金2,105,000円[1]
発行済株式総数42,105株(1941年8月末現在)[1]
主要株主
日本殖産興業
当初は陰陽連絡鉄道を目指して、大社宮島鉄道(つまり出雲大社〔出雲市〕と厳島神社〔廿日市市〕を結ぶという意味を転じて島根県と広島県を結ぶという意味を込めた)という壮大な社名をつけ、出雲 - 三次間91.7kmに鉄道を敷設する計画であった。三次を終点としたのは計画当時すでに芸備鉄道(現・芸備線)が広島から三次まで開通していたためで、それと結ぼうということである。出雲の富豪高橋隆一[2]が総代となり1919年1月に出願したものだが長く認可されなかった。これは地方鉄道にしては長大であることが要因であったが、当時の新聞によると(当時第2党の)憲政派の鉄道であるため放置されたとしていた。そこで地元の人たちは若槻礼次郎に運動した。若槻は仙石貢鉄道大臣に依頼するとともに折衝に慣れた根津嘉一郎を創立委員に据えようやく1924年になり免許状が下付された。
翌年、資本金800万円で大社宮島鉄道株式会社を設立し本社は東京有楽町に置いた。有望な投資先として東洋経済に取り上げられ、大株主は高橋隆一(簸上鉄道取締役)、野口遵(日窒コンツェルン 広島)、中村峯夫(芸備鉄道取締役)[3]、根津嘉一郎(昭和3年9月末)らであった[4]。
ところが昭和恐慌の影響と鉄道省による木次線の建設により陰陽連絡鉄道が完成されたことが原因で出雲今市(現:出雲市) - 出雲須佐間18.7kmを開業させたにとどまり、出雲須佐以南は測量を行っただけで着工に至らず、出雲須佐 - 三次間73.0kmの免許は失効のやむなきに至った。このため、社名を出雲鉄道に改称した。なお根津は免許失効直前の1937年に社長を退任している。
戦後は出雲平野に鉄道路線を展開している一畑電気鉄道に吸収されるが、社名は「一畑電気鉄道」ながら電化されることはなく、同社唯一の非電化路線として営業を続けていた。しかし、過疎化やモータリゼーションの進展で経営状況は芳しくなく、1964年(昭和39年)に島根県東部を襲った梅雨末期の集中豪雨(昭和39年7月山陰北陸豪雨)で路盤が流失したことを契機に営業は中止され、そのまま廃線へと追い込まれていった。過疎化やモータリゼーションの進展が原因で復旧する必要がないと判断されるほど経営状態は悪化していたことがうかがえる。
路線名称は沿線の景勝地である立久恵峡に由来する。
年表
1924年(大正13年)5月14日 : 雲芸鉄道に対し鉄道免許状下付(簸川郡今市町-双三郡十日市原村[5]間)[6]。
1926年(大正15年)5月10日 : 大社宮島鉄道に改称(届出)[7]して会社設立[8]。本社を東京に置く。初代社長は初代根津嘉一郎[9]。
1932年(昭和7年)
12月2日 : 瓦斯倫動力併用認可[8]
12月12日 : 出雲今市 - 出雲須佐間18.7kmが開通する[10]。
1933年(昭和8年)