出雲大社
拝殿(手前)と本殿(右奥、国宝)
所在地島根県出雲市大社町杵築東195
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度24分7.4秒 東経132度41分7.6秒 / 北緯35.402056度 東経132.685444度 / 35.402056; 132.685444座標: 北緯35度24分7.4秒 東経132度41分7.6秒 / 北緯35.402056度 東経132.685444度 / 35.402056; 132.685444
主祭神大国主大神
社格等式内社(名神大)
出雲国一宮
旧官幣大社
勅祭社
別表神社
創建神代とされる
本殿の様式大社造
別名杵築大社
札所等出雲國神仏霊場1番
例祭5月14日 - 16日
主な神事神在祭など
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}出雲大社
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出雲大社(いづもおおやしろ/いずもおおやしろ)は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。祭神は大国主大神[1]。式内社(名神大)、出雲国一宮で旧社格は官幣大社[2]。神社本庁の別表神社[2]。宗教法人出雲大社教の宗祠。
二拝四拍手一拝の作法で拝礼する[3]。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。 古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。正式名称は出雲大社サイトには「いづもおおやしろ」[4]、出雲大社東京分祠サイトには「いずもおおやしろ」とある[5](前者は現代仮名遣いと歴史的仮名遣いが混在、後者は現代仮名遣い)。歴史的仮名遣いでは「いづもおほやしろ」となる。 一般的には「いづもたいしゃ」と読まれており[4]、複数の辞書・事典でも見出しの読みを「いずもたいしゃ」としている[6]。島根県大百科事典編集委員会『島根県大百科事典』では出雲大社の項目は正式名称の「いずもおおやしろ」として掲載する一方[2]、出雲大社本殿(いずもたいしゃほんでん)など登録文化財の項目については登録名に従った読みで掲載している[7]。 古文書に見える社名は次のとおり。 出雲大社はいわゆる国譲りの事情のもとで創建された[2]。867年(貞観9年)には正二位に叙せられ熊野大社とは別に出雲国一宮と称せられるようになった[2]。中世には12郷7浦を領したが、豊臣秀吉により減じられ5郷2浦となった[2]。1871年(明治4年)に官幣大社に列格の後、大正時代に勅祭社となった。 出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。 以上のように、伝承の内容や大社の呼び名は様々である。共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。 また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。 出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主神であった[14]。 やがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた。鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていた[14][15](本来国引きは八束水臣津野命)ことから、中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊[注 2]であった。
名称
天日隅宮(『日本書紀』)[8]
杵築宮(『釈日本記
出雲宮(『八雲御抄』)
厳神之宮・いつかしのかみのみや(『日本書紀』)[9]
出雲大神宮(『日本書紀』)[10]
杵築大神宮(『和漢三才図会』)
所造天下大神宮(『出雲国風土記』)[11]
大社杵築大神宮(『国花万葉記』)
杵築大社(『延喜式』)[12]
出雲国大社(『享保集成総論』)
日本大社(真言宗正林寺蔵版木)
天日栖宮(『出雲国風土記』)
出雲石(石同)之曽宮(『古事記』)[13]。
歴史
創建
大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴命に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
所造天下大神(=大国主神)の宮を奉るため、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)
神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)
垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であった。占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)
659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)[注 1]
祭神の変化
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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