出羽国
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「出羽」、「出羽守」はこの項目へ転送されています。かつて運行されていた列車の「出羽」については「あけぼの (列車)」を、俗語の「出羽守」については「出羽守 (俗語)」をご覧ください。

出羽国

■-出羽国
■-東山道
別称羽州(うしゅう)[注釈 1]
両羽(りょうう)[注釈 2]
所属東山道
相当領域山形県秋田県(北東部除く)
諸元
国力上国
距離遠国
数11郡71郷
国内主要施設
出羽国府1.(推定)山形県庄内地方(出羽柵
2.秋田県秋田市秋田城跡
3.山形県酒田市城輪柵跡
出羽国分寺(推定)山形県酒田市(堂の前遺跡
(推定)山形県鶴岡市
出羽国分尼寺(未詳)
一宮鳥海山大物忌神社(山形県飽海郡遊佐町
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出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。現在の山形県秋田県上国
沿革
成立まで

大和朝廷は7世紀半ばから9世紀初めにかけて、蝦夷の住む土地にを設置して支配版図を拡大する政策をとった。そのために蝦夷の地に城柵を設けた。先ずは木ノ芽峠が西端で弥彦山が北端だった越国を拡大して、柵を建てた。大化3年(647年)に渟足柵(ぬたりのき:新潟市)[1]、大化4年(648年)に磐舟柵(いわふねのき:村上市)[2]斉明天皇4年(658年)に都岐沙羅柵(つきさらのき/ときさらのき:アイヌ語の地名の別称か、所在地不明)であり、これらのうち渟足柵と磐舟柵は現在の下越地方に当たる。

7世紀後半に越国から磐舟渟足の2郡が分離されて越後国が設置された。その後は北方に勢力を拡大し、和銅元年9月28日[3]708年11月14日)に出羽郡を設置し、前後して出羽柵庄内地方)を築造した。
出羽国の成立

和銅5年9月23日[4]712年10月27日)に出羽郡は出羽国に昇格し、同年10月1日に陸奥国から置賜郡最上郡を譲られて国としての体制が整った[5]。その後、東国北陸などの諸国から800戸以上の柵戸を移住させた。さらにその後も柵戸や公民[注釈 3]を中心とした郡制施行地を拡大していった。

出羽国成立当初のランクは不明であるが、律令制の下で上国[6]とされ、蝦夷と接する重要な位置にあった。隣の陸奥国もまた蝦夷に接していたが、両国を統括する政治的・軍事的中心は主に陸奥側に置かれた。例えば、両国を統括する按察使は陸奥国守が兼任する慣行であった。陸奥国と並び黄金を産した。
北方への拡大と俘囚の反乱

以後は、陸奥国と並ぶ辺境の国となり、天平5年(733年)頃には雄勝郡を設置し、また同年12月26日に出羽柵が秋田村高清水岡(秋田市)に移された。その後雄勝郡は一旦放棄されたと見られているが、天平宝字3年(759年)には雄勝城の設置に合わせ、改めて雄勝郡・平鹿郡が置かれた。天平宝字4年(760年)頃、出羽柵は秋田城へと改変された。以後も俘囚の反乱が相次いだため、宝亀11年(780年)に秋田城の放棄が検討されたが、次官国司である出羽介が秋田城介として常置されることとなった。この頃、国府機能が城輪柵(きのわき:山形県酒田市)に移された(#国府)。陸奥国府には鎮守府が置かれ、平安時代後期以降に秋田城介が空位になると、鎮守将軍(後に鎮守府将軍)が両国を軍事的に統括した。
平安時代前期

延暦23年(804年)、蝦夷の反乱が激しくなり、秋田城は停廃されて秋田郡となった。ただし機能が完全に停止されることはなく、陸奥側の北部4郡が放棄されたのと異なり、俘囚の主とされる清原氏在庁官人として力を蓄えたと見られている。8世紀河辺郡が置かれ、山本郡(後の仙北郡)が平鹿郡から分離するなど、徐々に領域を北へ伸ばした。仁和2年(886年)には最上郡から村山郡が分離し、その後延喜年間までに出羽郡から飽海郡田川郡が分離したと見られている。最終的に、出羽国が管理したのは11郡58郷であった[7]。なお、平安時代まで出羽は「いでは」と読んでいた。

天長7年(830年)、嘉祥3年(850年)には大地震に見舞われた。830年の天長地震は『日本後紀』に秋田城近くの大きな川の水が無くなったことが、850年の出羽地震は『日本三代実録』に津波が城輪柵の近く6里にまで迫ったことが記されている[8]
陸奥国と出羽国の境界

秋田郡以北の建郡の状況はよく分かっていない。平安時代初期までは、蝦夷を出羽側の「蝦狄」と陸奥側の「蝦夷」に分けて記録されており、後に陸奥国となる紫波郡が出羽国管轄の「志波村」とされているなど、陸奥との境界は不明瞭であった。平安時代末期には奥州藤原氏の支配を通じて、出羽国府の直接管轄地よりも北が陸奥国として整理されたと見られている。この時期に陸奥国比内郡(戦国時代以降は秋田郡北部)、鎌倉時代初期には河北郡(当初は陸奥国か出羽国か不明、後に出羽国檜山郡を経て江戸時代以降は山本郡)が置かれ、これらは中世末期までに出羽国の領域に入ったとする見解がある。
奥州藤原氏

清原氏が後三年の役で滅亡した後、これに代わって奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になったと一般的には言われているが、近年の研究では、この支配は陸奥北半分では一円的な領主的立場であるが、陸奥南部と出羽においては押領使鎮守府将軍としての軍事指揮権に伴う在地領主の系列化と、荘園の管理権[注釈 4]及び鳥羽天皇御願所としての中尊寺を介しての寺領支配[注釈 5]の複合的かつ間接的支配に止まったのではないかと指摘されている。
鎌倉時代

奥州藤原氏が奥州合戦で滅亡し、残党が出羽で起こした大河兼任の乱も鎮圧されると、頼朝は出羽国に橘氏(小鹿島氏:秋田県男鹿市)、平賀氏平鹿郡)、小野寺氏雄勝郡)、武藤氏大宝寺氏庄内地方)、大江氏長井氏置賜郡寒河江氏:村山郡寒河江荘)、中条氏(村山郡小田島荘)、二階堂氏(最上郡成生荘)、安達氏(最上郡大曾根荘)等の御家人を地頭として配置した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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