出羽ヶ嶽文治郎
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出羽ヶ嶽 文治郎


基礎情報
四股名出羽ヶ嶽 文治郎
本名斎藤 文次郎(旧姓:佐藤)
愛称(サバ折り)文ちゃん
生年月日1902年12月20日[1]
没年月日 (1950-06-09) 1950年6月9日(47歳没)
出身山形県南村山郡(現:山形県上山市
身長205cm
体重180kg
BMI42.83
所属部屋出羽海部屋
得意技突っ張り、右四つ、小手投げ鯖折り
成績
現在の番付引退
最高位東関脇
生涯戦歴209勝179敗2預114休(56場所)
幕内戦歴150勝138敗53休(31場所)
優勝0
賞0
データ
初土俵1917年5月場所
入幕1925年1月場所
引退1939年5月場所
備考
2015年9月23日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

出羽ヶ嶽 文治郎(でわがたけ ぶんじろう、1902年12月20日 - 1950年6月9日)は、山形県南村山郡(現:山形県上山市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は斎藤 文次郎(さいとう ぶんじろう)(旧姓:佐藤)。最高位は東関脇

大相撲初の、身長200cm・体重200kgを両方超えた日本人力士であり[2]、身長は最高で205cmを記録した[3]。 昭和40年代あたりまで、日本史上最高体重の人物とも言われていた[4]
来歴

非常に肌寒い1902年12月20日に、山形県南村山郡(現:山形県上山市)で生まれる(出生地は諸説あり)。幼少時代から既に巨躯で、小学校入学時点で161cmと当時の日本人の体格で考えると教員と変わらないほどの新入生であった[5]。子供の頃から体格が良かったが気弱で泣き虫であり、小学校時代は集団に入らずに読書をして過ごすことが多く、巨体がコンプレックスであったため人前では立った姿をなるべく見せないようにしていた。奉公に出されても巨体のため引き取り手が無く、山形県中川村の世話役によって東京で青山脳病院を経営していた斎藤紀一に面倒を見てもらっていた。紀一は斎藤茂吉の義父(のちに継父)で、世間や斎藤家に出入りしていた関係者も文次郎少年は紀一の養子であると考えていたが、実際は紀一の親戚である斎藤貞次郎の養子となっていた[4]青山南町青南小学校から青山学院中等科へ入学した時は身長が182cmまで達し、体重も100kgを超えていたが、紀一の元で過ごしていたことと、頭脳明晰で成績優良、級長を務めて将来は小児科医になるつもりだったため、紀一が後援していた出羽ノ海から勧誘されても一度断った。それでも熱心に勧誘され続けたため、最終的には中途退学して入門することとなった[4]。この時で身長198cm・体重140kgの巨漢だった(当時の身長に関しては文献によって異なる数値が出ている)。一方、相撲記者の抜井規泰の取材によると、「日本一頭のいい男と、日本一身体の大きい男を養子にする」と豪語した育ての親の紀一は始めから文治郎を力士にするつもりであったといい、嫌がっていた文治郎を説き伏せて自身がタニマチを務めた出羽海部屋に入門させたとある[5]。一説には中学時代に巨人症が発覚したことで自棄になった文治郎を紀一が説得して角界入りを勧めたという話もある。

四股名は山形県出身であることと所属する出羽海部屋から「出羽ヶ嶽」として1917年5月場所で初土俵を踏む。初土俵の頃は体が大きいだけで動きが鈍く、番付に名前が載るまでに3場所を要した。幼少期から奇異の目で見られてきた出羽ヶ嶽にとって笑い者になっていた下位時代は苦痛であった。

栃木山守也の指導が功を奏して1925年1月場所で新入幕を果たすと、立合いは遅かったが角界入りしてからも成長を続ける体格を生かした小手投げ鯖折りが強く、腕力そのものは非力だったもののこれによって負傷者が続出したため、対戦相手から恐れられた。1926年5月場所での太刀光電右エ門戦では出羽ヶ嶽の鯖折りで右脚を負傷、これが元で太刀光は大関から陥落し、以後も再起できなかった。

新入幕から負け越し知らずで関脇へ昇進するが、この時期に栃木山守也が余力を残したまま現役引退したことで稽古相手がいなくなり(出羽ヶ嶽自体並外れた巨漢のため他に誰も稽古したがらなかった)、さらに脊髄カリエスを患ったことで1926年5月場所を途中休場、平幕降格は免れたものの以降は勝ち越しても6勝5敗の成績が増えていく。1928年5月場所、同年10月場所は小結でありながら全休し、1930年1月場所ではついに幕尻まで番付を下げてしまった。1932年には天竜三郎春秋園事件を起こし、多くの力士と共に大日本相撲協会を脱退するが、出羽ヶ嶽だけは「肉体その他の条件から、まげを切らすに忍びない」という理由、そして本人が泣いて拒んだこと[6]から髷を切らず、同年5月場所において斎藤茂吉の説得もあって番付外幕尻格で帰参した。

1935年1月場所を3勝8敗と大きく負け越したことでついに平幕の座を失い、十両に降格した後も2勝9敗(同年5月場所)、11日全休(1936年1月場所)と思うような相撲が取れず、あっという間に関取の座も失った。その後も休場が続き、1938年5月場所は元関脇として当時、異例の三段目陥落となってしまった。その場所では5勝2敗と勝ち越して翌1939年1月場所は幕下(西24枚目)に戻った。同年5月場所は西幕下10枚目で迎えたが、1勝5敗と負け越しが決まったことで現役を引退し、年寄・田子ノ浦を襲名した。当時の「田子ノ浦」という名跡は、立浪部屋に所属していた十両の桐ノ花が保有していたが、出羽ヶ嶽が部屋の女中頭である桐ノ花の妹と結婚して義兄弟になったこともあって名跡を譲渡され、これ以降は借株を挟んで久島海啓太が襲名、没するまで出羽海一門の名跡とされている[7]
引退後

終戦後、旧両国国技館がGHQに接収されて「メモリアルホール」と改名された際には、下駄での入場は禁止されていたが、出羽ヶ嶽のみが貸出用スリッパでサイズが合うものが無かったために許可された。晩年は東京都江戸川区小岩焼き鳥店「やきとり文ちゃん」と花屋を経営していた。当時の部屋付き親方は待遇が悪く親方業だけでは生活が苦しいため副業を行っていたという[8]

1950年6月4日、脳出血に襲われ、朦朧とする意識の中で土俵が気になっていたのか妻に巡業の業務に行くための切符を買うように求めた[8]。数日間病床にあったが、1950年6月9日に死去、47歳没[4]。最後の言葉は「犬と猫、頼むな」[8]。出羽ヶ嶽の遺体は巨人症の研究のために解剖されることとなったが、故人の名誉を重んじて死去直後は死因確認を目的とする簡単な病理解剖が行われただけで、その後の遺体は東京大学医学部に長きに渡って保管された。そして、出羽ヶ嶽の死去から約35年が経過した1984年に、巨人症の研究が開始されることとなり、出羽ヶ嶽の遺体が本格的に解剖された。1986年には骨格研究の結果が論文報告された[9][10]。出羽ヶ嶽の遺体の一部は、現在でも東京大学医学部附属病院標本として保管されている[4]
人物

戦前力士としては非常に大きな体格で、腕力が非力で立合いも遅かったが、強烈な突っ張りから左右を抱え込んでの小手投げ・鯖折りが威力十分で恐れられた[11]。幕内土俵入りを遠くから見物していても背が高い出羽ヶ嶽はどこにいるかすぐに判り、「文ちゃん」の愛称で大正末期から昭和初期に人気を独占、特に東京六大学野球に人気を取られて衰退期にあった相撲界を人気面で支えた[11]

関脇昇進後は大関横綱昇進を期待されたが、足腰の負傷などで平幕どころか三段目まで降格となり、体重や年齢が半分程の対戦相手に苦戦する姿は同情を集める一方で嘲笑の的でもあり、悲惨だった。


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