出汐(でしお)は、広島県広島市南区に所在する町名である。旧町名は「出汐町」( - ちょう)。 広島県を流れる太田川の三角州上、猿猴川と京橋川に挟まれた州の内陸部に位置する。 地区のかなりの部分(出汐2丁目のほぼ全域)を広島県立広島皆実高等学校および広島県立広島工業高等学校の校地(戦前の広島陸軍被服支廠の跡地)が占め、残りは宅地がほとんどである。地区は国道2号によって南北に分断され(北半が出汐1・4丁目、南半が同2・3丁目)、かつては旧国鉄宇品線(現在は車道として整備)によって東西に分断(東半が1・2丁目で西半が4・3丁目)されていた。 すべて南区内。 付近の田畑に汐のわき出るところがあったことによるとも、皆実新開の鎮守である竪岩社の脇に潮の干満のある「出潮池」があった(知新集)ことに由来するともいう[1]。 江戸初期、広島湾頭の遠浅の干潟に過ぎなかったこの地区は、1662年(寛文2年)から翌1663年にかけて行われた仁保島西新開の造成により、近隣の皆実町・旭・翠などとともに新たな埋め立て地となった。仁保島西新開はのち「皆実新開」と改称され、明治維新後には皆実村、1889年(明治22年)の広島市制施行後は同市の(大字)皆実に属することとなった。日清戦争開戦とともに軍港である宇品港への軍事輸送のためにこの地区を縦断して国鉄宇品線が敷設され、また戦後に比治山以南の地域に軍事施設の設置が進むなか、この地区にも広島陸軍被服支廠が設置(1904年)された。昭和期に入って被服支廠などへの通勤のため、地区内(現・出汐3丁目付近)に宇品線の上大河駅が開業、さらに2年後の1932年には町域を接する霞町の陸軍兵器支廠の通勤のため現在の出汐1丁目に比治山駅が開業された[2]。そして、それまで皆実町(1916年に改称)の一部(当時は皆実町「東上組」と称された[3])であったこの地区は、1933年になって初めて「出汐町」として分立した。戦前のこの時期、出汐町の大半は工場・倉庫が建ち並ぶ被服支廠の敷地によって占められ、その周囲は蔬菜・麦・レンコンなどが栽培される近郊農業地域であった。1945年8月6日の原爆投下に際して、爆心地から2.5km強の位置にあった出汐町は、北半部が比治山の陰に入っていたなどの要因があって半壊地域とされているものの被害は比較的小さかった。 戦後、出汐町の大半を占めていた軍用地は開放され、被服支廠の跡地の大半は県立皆実高(1949年設立)・県立工高(1953年設立)が校地として使用し[4]、残った建物は学生寮やアパート、民間企業の工場・倉庫に転用された。周囲の農地も宅地化が進行し、1966年に町内を南北に分断する新広島バイパス(現国道2号)が開通したことはこの流れに拍車をかけ、区画整理に伴って出汐町も比治山本町・皆実町に町域の一部を編入した。その一方で、戦後次第に利用者を減らしていた宇品線はバイパス開通により廃止が決定的となり、1972年の旅客営業全面停止にともない上大河駅も廃止された(路線自体はその後も1986年まで貨物線「宇品四者協定線」として存続した)。
概要
地理
地誌
住居表示
出汐1?4丁目
隣接している地区
北側:比治山および段原。
南側:翠、旭など。
西側:広島市道中広宇品線を挟んで比治山本町、皆実町。
東側:霞。
歴史広島の新開地発展図(『概観広島市史』1955年) / 現在の出汐地区を含む皆実新開が宝暦3年(1753年)以前の開発であり、広島築城時にはこの地区が海であったことが示されている。1930年頃の広島市街図 / 町域の大半が「陸軍被服支廠」によって占められていたことが分かる。なお、この時点では国道2号線のルートは現在とは異なり出汐付近を通っていない。1944年当時の陸軍被服支廠1945年の米軍作成の地図 / "DESHIOMACHI"(出汐町)が確認できる。「皆実町 (広島市)#歴史」も参照
地名の由来
沿革
新開地の造成から戦前まで
戦後から現在まで
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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