出島
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この項目では、長崎の出島について説明しています。その他の用法については「出島 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
1824-25年ごろの出島[1]

出島(でじま、英語: Dejima、オランダ語: Deshima)は、1634年江戸幕府が対外政策の一環として長崎に築造した日本初の本格的な人工島[2]扇型で面積は3,969(約1.5ヘクタール[3]1636年から1639年までは対ポルトガル貿易、1641年から1859年まではオランダ東インド会社(AVOC、アムステルダムに本部のあるVOC)を通して対オランダ貿易が行われた。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}左: 1818年バタヴィアから長崎に到着するVrouwe Maria号 大英博物館
右: 唐蘭館絵巻[注釈 1] 川原慶賀

明治以降は長崎港港湾整備に伴う周辺の埋立等により陸続きとなり扇形の面影は失われたが、出島全体は1922年(大正11年)10月12日「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定され[4][5]1996年(平成8年)より江戸当時の姿への復元を目指す長崎市が出島復元整備事業計画(後述)を進めている[6]
歴史
建設前史

倭寇対策である1371年海禁令のため不足に陥っていたが、日本では1526年石見銀山が開山され産銀は増大[注釈 2]していた。1543年種子島に倭寇の頭領王直ポルトガル人とともに漂着。ポルトガルはこれを機に中国生糸と日本銀の交換取引の仲介(南蛮貿易)を始め、マカオカピタン・モールを派遣しアジア貿易の拠点とした[8][注釈 3]

1528年にユトレヒト司教区(英語版)がカトリックのスペイン・ハプスブルク軍に占領され、1531年ハプスブルク領ネーデルラントアントウェルペン証券取引所が設立されたが、1566年にはフランドル改革派の暴動から八十年戦争が始まった。1585年遂にスペインアントウェルペンを陥落[9]。改革派プロテスタントのオランダ商人らが追われ、欧州の経済拠点は1602年創設のアムステルダム証券取引所オランダ東インド会社(VOC)に移動する。家康朱印状(1609年)オランダ国立公文書館(オランダ語版)

VOCは1609年朱印状を賜り平戸藩領に平戸オランダ商館を設置。江戸で布教しない条件で営業を認められた。一方、ポルトガル商人の関係者には朱印状偽造事件が発生し、幕府のカトリック信者やポルトガル商人に対する弾圧が始まった
建設阿蘭陀船は南東海上に(島原御陣図)[注釈 4]

出島は幕府によって1634年(寛永11年)から1636年にかけてポルトガル人を管理する目的で建設された[注釈 5]。築造費用は、門・橋・塀などは幕府が、それ以外は長崎町年寄糸割符年寄などの出島町人が出資した[14]1637年12月に島原の乱が発生すると、幕府は長崎滞在中のポルトガル使節の参府を禁じて出島に監禁する一方、VOCには[15]便宜供与した。乱の終結後の寛永16年(1639年)、松平信綱は、平戸藩がオランダとの独占的交易により強力な兵備を持っていることに気づき、寛永18年(1641年)にはポルトガル人を排除した出島に平戸オランダ商館を移転させ、以後開港地を出島に限定してゆくことになる。
鎖国ケンペル江戸参府 綱吉蘭人御覧[16]江戸参府途上祇園でのオランダ人 [17]道頓堀で.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}諌鼓鶏(かんこどり)『船弁慶』見物をするオランダ人 [18][19]

1638年の春、島原の乱を鎮圧[注釈 6]した幕府は禁教徹底のため、カトリックのポルトガルとの関係を断絶しようとしたが、当時の日本に必要不可欠な中国産生糸などをマカオから齎すのはポルトガルで、VOCでは懸念が残り、同年はマカオから派遣されたカピタン・モールの将軍への謁見を拒否するにとどまった。1639年、平戸のオランダ商館長フランソワ・カロンが江戸に参府し、ポルトガルとの関係断絶を幕閣に訴えた[注釈 7]。幕閣はカロンに諮問し懸念事項を払拭して[注釈 8]、ポルトガルと断絶した。同年、幕府は長崎奉行や九州地方の大名に「第5次鎖国令」を発布し、ポルトガル人を出島から退去させた。翌1640年、幕府は貿易再開を求めるポルトガル使節団の内61名を処刑し改めて貿易再開しない意思を示した[20][21][22]。無人状態の出島には貿易利潤も土地使用料も発生せず、困窮した出島町人の訴えを踏まえ、1640年、建物の破風に西暦年号が記されているのを口実に平戸オランダ商館破却を幕府は命じた。商館長カロンはこれを了承し、1641年、出島に移転[5]。以降約200年間、武装と宗教活動を規制されたVOC社員等が出島で幕府の監視下に置かれた。アントウェルペンのJohanna Elisabeth号・ヘントのVasco da Gama号[23]蘭国王誕生日奉祝の宴[注釈 9]1825年


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