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出口 裕弘(でぐち ゆうこう、1928年8月15日 - 2015年8月2日)は、昭和・平成期の日本の作家、翻訳家、フランス文学者。元一橋大学教授。 東京府北豊島郡日暮里町(現在の東京都荒川区東日暮里)の生まれ。ただし『北海道名士録 昭和35年度版』(1頁には千葉県松戸市出身とある[1]。本名の訓みはヤスヒロといい、葛飾区立堀切小学校から東京府立第十一中学校(東京都立江北高等学校)を経て1945年4月、旧制浦和高等学校理科1組入学、1945年7月1日、武原寮(ぶげんりょう)に入寮しここで敗戦を迎えた。寮で1級下の野沢協と相識る。 1945年10月、文科甲類に転科する。在学中は文芸部に所属し、短歌や俳句、詩や小説などの創作活動に熱中した。童話や戯曲にも手を染め、もともとはドストエフスキーなどのロシア文学に傾倒していたが、文芸部長井上芳夫(のち映画監督となる)から第一書房刊のフランス現代小説シリーズを借りて読み、フランス文学に目覚める。当時から一貫して作家志望だった。1946年4月、理科から文科甲類に転科した同学年の澁澤龍雄(後の龍彦)と相識る。その後40年間以上にわたる澁澤龍彦との交遊の始まりとなった。 1948年、旧制浦和高等学校卒業、東京大学文学部フランス文学科入学。1952年、東京大学文学部フランス文学科を卒業[2]、ジャーナリズム関係の就職試験に全敗したため、複数の大学でフランス語の臨時講師となった。 1954年6月、北海道大学文学部専任講師となり札幌市に赴任した。1955年、澁澤や小笠原豊樹(岩田宏)たちと共に同人誌「ジャンル」を創刊、尊敬する太宰治の本名にあやかって津島裕名義で短篇小説「白日」を発表した。 1956年3月に結婚。1958年、澁澤に誘われて同人誌「未定」に長篇小説「重い鞄」を発表するも第1回のみで中絶。1959年、北海道大学の学内綜合誌「北大季刊」に長篇小説「八月始末記」を発表するも第1回のみで中絶した。1959年8月、長男が誕生した。 1960年、澁澤の世話により、モーリス・ブランショ『文学空間』を粟津則雄と共訳した。1962年9月、東京経由でパリ大学文学部に私費留学した(当時の月給は3万円、ヨーロッパへの往復航空券は45万円ほど)。 1963年3月、パリ留学を切り上げてローマ経由で帰国、1963年4月、フランス語専任講師として一橋大学に赴任した。 1965年、調布市若葉町に平屋建て四間の新居を落成。1966年10月、北鎌倉の澁澤邸にて、尊敬する三島由紀夫と初対面を果たし、ユイスマンス『大伽藍』(1966年3月)の訳業を褒められる。1967年11月、ジョルジュ・バタイユ『有罪者』を翻訳出版し三島に献呈したところ、1967年12月21日、三島から「すばらしい本をお出しになりました。そして現下最も緊要なる本を」という返礼の葉書を受け取った。 1970年、一橋大学経済学部の教授に就任。1971年秋、「海」に長篇小説「京子変幻」を発表、小説家として商業誌に初登場。1972年、「海」に「天使扼殺者」を発表した。
来歴・人物