出口王仁三郎
[Wikipedia|▼Menu]

でぐち おにさぶろう
出口 王仁三郎
1930年(昭和5年)5月24日亀岡にて
生誕上田 喜三郎
1871年8月27日
京都府亀岡市
死没1948年1月19日(満76歳没)
墓地綾部市天王平墓地
団体大本・人類愛善会・エスペラント普及会
肩書き大本教主輔/聖師
宗教大本
配偶者出口すみ(澄)(開祖五女・二代教主)
子供長女・出口直日(三代教主)
娘婿・出口日出麿(三代教主補)
次女・出口梅野
娘婿・出口寿賀麿(浅野正恭養子)
三女・出口八重野
娘婿・出口宇知麿
親義母・出口なお(直)(大本開祖)
テンプレートを表示

出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日明治4年旧7月12日〉 - 1948年昭和23年〉1月19日)は、新宗教大本」の二大教祖の一人。肩書きは「教主輔」、尊称は「聖師」。
概要

出口王仁三郎は、大本において聖師と呼ばれる[1][注釈 1]。強烈な個性と魅力とカリスマを持っていたとされ、メディアを含め様々な手法を駆使して昭和前期の大本を日本有数の宗教団体に発展させた[2]。その一方で奔放な言動により敵対者から多くの非難も浴びる[3]。評価は現在でも定まっていない[4]。「国家神道」と相容れない教義を展開した大本は危険勢力として政府の弾圧を受け、自身も7年近く拘束された[5]太平洋戦争終結後は教団の再建に尽力するも病により死去した。その思想と布教方法は戦後の新宗教に大きな影響を与えた[6]

読み方について「わにさぶろう」とされることもあるが、正しくは「おにさぶろう」[注釈 2]。大本の開祖である出口なおのお筆先(自動書記)で、元の名前である「喜三郎(きさぶろう)」を「おにさぶろう(鬼三郎)」と書かれたことに対し、「鬼」の字を嫌って「王仁」の字を当てたことに由来する[8]。ただし「王」の歴史的仮名遣いは「わう」であり「わにさぶろう」とすること自体は不自然でなく、また実際に「わに」を使用した例もあり[9]百済から日本に漢字儒教を伝えた学者王仁(わに)との関連を指摘する研究者もいる[10][注釈 3]。またマスコミが挿絵中でワニの姿で表現した事例もあった[14]
生涯
生い立ち

出口王仁三郎の前半生は自伝や大本の伝記によるところが大きく、空海役行者のような聖人伝説の影響が見られる[15]。一般には1871年(明治4年)8月27日(旧暦7月12日)、現在の京都府亀岡市穴太(あなお)に、農業を営む上田家五男三女の長男上田 喜三郎(うえだ きさぶろう)として生まれた[16]。(以下、改名まで『喜三郎』と表記。)祖母・上田宇能は、『日本言霊学』で有名だった中村孝道の妹にあたり、伝承や言霊学を始めとした知恵を持っていた[17]。喜三郎は幼少時は登校さえ出来なかった虚弱体質児であったため、家で祖母にあれこれと教わり、同年代の子供より老人達と交わることを好んだ[18]。また、近所ではその聡明さから「八つ耳」(直感力や理解力に優れた人間の意)、神童と言われていた[19]。少年時代、明智光秀が築いた亀山城に登って天下に勇躍することを願ったという[20]

1883年(明治16年)、13歳の時に通学する小学校教師と喧嘩沙汰となり退学、校長に見込まれ、その教師の代用教員として採用される[21]。2年後、正式な小学校教員が赴任してきた為に辞職(僧侶出身の教員と神道について口論になったとも[22])、農業をはじめ様々な職種を体験する[23]豪農の家に奉公したことで、小作人や小農の格差を自覚した[24]1893年(明治26年)(23歳)のころから園部の牧場で働きながら獣医を目指すが不合格となり、京都府巡査試験に合格するも拒否[25]。明治時代の若者として立身出世を目指す喜三郎は、マンガン鉱の探鉱やラムネ製造など幾つかの事業を始めるが失敗した[26]。結局1896年(明治29年)(26歳)で独立し「穴太精乳館 上田牧牛場」を開業、搾乳牛乳販売業を始めて成功を収めた[27]。当時、園部の南陽寺に滞在していた岡田惟平から古事記日本書紀の国学的解釈と和歌を学んでいるが、喜三郎と宗教との接点は少なかった[28]。歯痛を癒やしてくれた事を機会に、以前より上田家と関係があった妙霊教会(兵庫県の山岳信仰)に出入りするが、熱心な信者ではなかった[29]
出口なおとの出会い

多芸多趣味の喜三郎は義侠心を持った賑やかな人物であり、侠客の親分から養子の申し込みがあるほど亀岡で人気を博した[30]。だが父の死、喧嘩で負傷した事、祖母の訓戒が重なり、宗教家への道を歩み出す[31]1898年(明治31年)3月1日、松岡芙蓉(または「天狗」と名乗ったとも[19][32])と名乗る神使に伴われて、亀岡市内の霊山高熊山の頂上近くの洞窟に一週間の霊的修行をする[33]。その結果、喜三郎は救世主としての自覚を持つ。続いて精乳館を弟に譲り、静岡県清水の稲荷講社で長沢雄楯に師事して霊学の修行を行ったのち、鎮魂帰神法と審神学を伝授される[34]。これによって伯家神道や言霊学、修験道といった古神道の知識を得た[35]。長沢は喜三郎にかかった神を小松林命(素戔嗚尊の顕現または分霊)と審神した[36]。自信をつけた喜三郎は稲荷講社に繋がる「霊学会」を設立、会長となり、亀岡の北西に位置する園部で布教をおこなう[37]。周囲からは「喜楽天狗」と呼ばれた[38]

1898年(明治31年)10月8日、喜三郎は大本の開祖・出口なお(直)(以下、『なお』と表記)を京都府綾部に訪ねる[39]。極貧生活を送る無名の老婆だったなおは祟り神と恐れられた『艮の金神(国常立尊)』の神懸かりを起こし[40]日清戦争の予言や病気治療で「綾部の金神さん」という評判を得ていた[41]。暫定的に金光教の傘下で活動していたが徐々に方針の違いが明らかになり、独立を希望すると共に自らに懸かった神の正体を審神する者を待っていたのである[42]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:356 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef