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出典検索?: "出光佐三"
いでみつ さぞう出光 佐三
財界研究社『財界』第14巻第4号(1965)より
生誕 (1885-08-22) 1885年8月22日
福岡県宗像郡赤間村
(現・宗像市赤間)
死没 (1981-03-07) 1981年3月7日(95歳没)
国籍 日本
別名海賊
出身校神戸高等商業学校
(現・神戸大学経済学部)
職業実業家
活動期間1909年 - 1981年
影響を受けたもの水島銕也、内池廉吉
肩書き出光興産創業者
子供長男:出光昭介(出光興産第5代社長)
四女:出光真子(英語版)
親戚弟:出光計助(出光興産第2代社長)
甥:出光裕治(出光興産第6代社長)
出光 佐三(いでみつ さぞう、1885年8月22日 - 1981年3月7日)は、明治から戦後にかけての日本の実業家・石油エンジニア・海事実業家。石油元売会社出光興産の創業者。貴族院多額納税者議員。目次 神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒業。同校で水島銕也校長に師事し「士魂商才」の理念に感化を受ける。同期に高畑誠一、永井幸太郎、和田恒輔。内池廉吉教授の「商業概論」の講義で受けた「商売は金儲けではない」との教えから、1940年に出光興産創業後、大地域小売業を展開した[1]。 弟・出光計助は1966年10月から1972年1月まで第2代社長。長男・出光昭介は1981年6月から1993年5月まで第5代社長。主に九州でガソリンスタンドを展開する新出光(資本関係は無かったが出光本体への出資が2005年に決定)の創業者・出光弘
1 人物
2 略歴
3 その他
4 賞詞
5 著書
6 参考文献
6.1 伝記
7 関連項目
8 脚注
9 外部リンク
人物
新出光社長の出光芳秀は甥にあたる。甥の妻が推理作家の夏樹静子である[要出典]。
佐三は故郷である福岡県宗像市に在る宗像大社を厚く信仰していた事で知られ[要出典]、その再建にも貢献した[3][4]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
略歴
出典検索?: "出光佐三"
貴族院多額納税者議員時代の出光
1885年(明治18年)8月22日 福岡県宗像郡赤間村(現・福岡県宗像市赤間)に誕生。父は藍問屋を営む出光藤六、母は千代。
1901年(明治34年) 福岡市商業学校(現・福岡市立福翔高等学校)に入学。
1905年(明治38年) 神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)に入学。神戸高商在学中、将来外交官になろうと考えていた。
1909年(明治42年) 同校卒業。卒業論文は「筑豊炭及び若松港」。当時同校の卒業生は海運会社の社員に就職するのが通常だったが、神戸で小麦粉と石油・機械油などを扱う従業員3人の酒井商店に丁稚として入店。学友から「お前は気違いだ。学校のつらよごしだ」と言われる。
1911年(明治44年)6月20日 日田重太郎(資産家。日田の息子の家庭教師を佐三が務める)から「働く者を身内と思い良好な関係を築き上げろ。己の考えを決して曲げず貫徹しろ。そして私(日田)が金を出したことは他言するな。」と資金6,000円を渡され満25歳で独立。福岡県門司市(現・北九州市門司区)に出光商会を設立。日本石油(現・JXTGエネルギー)の特約店として機械油を扱った。
1914年(大正3年) 南満州鉄道に車軸油の納入成功。
1919年(大正8年)酷寒の地・満州で車軸油が凍結し、貨車のトラブルが続出していた南満州鉄道に「2号冬候車軸油」を無償で提供。当初は使われてすらいなかったが、単身満州にわたり満鉄本社に直談判し、現地で試験を行い、事故を一掃した。1927年(昭和2年)満鉄創立20周年のときに、感謝状と銀杯が贈られた。
1923年(大正12年) 関東大震災に際し、全店員に禁煙を呼びかける(2ヶ月間)。
1924年(大正13年) 第一銀行(現・みずほ銀行)からの25万円の借入金引き揚げ要請があったが、二十三銀行(現:大分銀行)の林清治支店長が肩代わり融資を決め、窮地を脱する。この頃、自殺説までささやかれる。
1929年(昭和4年)朝鮮における石油関税改正のために奔走。
1932年(昭和7年) 門司商工会議所会頭に就任。
1935年(昭和10年)「満州国」の石油専売制に反対。
1937年(昭和12年)2月5日 貴族院議員(多額納税)に就任[5]。
1938年(昭和13年)国策会社大華石油設立に反対。
1940年(昭和15年)3月 出光興産株式会社を設立。
1941年(昭和16年)北支石油協会の設立に反対。
1943年(昭和18年)石油販売法に反対。
1945年(昭和20年)8月 出光佐三は、終戦の2日後、従業員に「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」と訓示した。多くの企業が人員を整理する中、出光佐三は約1千名の従業員の首を切らないことを宣言した。
1946年(昭和21年)国際石油カルテル独占を規制することを建言。
1947年(昭和22年)公職追放令該当のため貴族院議員資格が消滅(3月12日)[6]。出光、石油配給公団の販売店に指定される(10月)。出光商会と出光興産が合併し、出光興産として再出発(11月)。
1949年(昭和24年)出光興産、元売業者に指定される(10月)。
1950年(昭和25年)出光興産、石油製品の輸入を主張。
1951年(昭和26年)出光興産、日章丸二世を建造。「消費者本位の石油政策」を発表(9月)。
1952年(昭和27年)出光興産、高オクタン価ガソリンを輸入。
1953年(昭和28年)5月9日 イラン石油輸入日章丸事件:日章丸二世(1万9千重量トン)が、石油を国有化し英国と係争中のイランのアバダンから、ガソリンと軽油を満載し、川崎へ入港。