この記事には複数の問題があります。改善
やノートページでの議論にご協力ください。人類の進化(じんるいのしんか、英: human evolution)とは、他と異なる独立した生物種としての現生人類(英名:anatomically modern humans〈意:解剖学的現代人〉、学名:Homo sapiens〈ホモ・サピエンス〉、他説では Homo sapiens sapiens )を主題としながら、これが属する系統群(クレード)全体を見渡そうとする概念における、当該系統群が辿ってきた生物学的進化をいう。起源を紐解くという観点から、人類の起源(じんるいのきげん、英: human origins)などといった表現もある。
本項では、霊長類(サル目;霊長目)の出現を起点とし、人類の祖先系統を含む全ての化石人類、そして現生人類が出現してやがて唯一の残存種となるまでの、進化と絶滅の経緯についての解説を主題としながら、関連事象や研究史などについても言及する。 人類の祖先に、どのような進化的変化が起きたかは、幅広い科学的探求の主題である。この研究は多くの分野、特に形質人類学、言語学、遺伝学、考古学などと関連している。 なお、「人類」という用語は人類の進化の文脈ではヒト科ヒト亜科ヒト族ヒト亜族ヒト属生物に対して用いられるが、他の属(アウストラロピテクス属など)を含むヒト亜族生物を指す場合もある。本記事では、人類という用語をチンパンジー亜族と分岐し直立二足歩行していたヒト亜族生物に用い、脳の発達したヒト属生物については学名で表記し、特にヒト属生物のうちホモ・サピエンス・サピエンスについては現生人類と表記する。 ヒト属(ホモ属)はおよそ200万年前にアフリカでアウストラロピテクス属から別属として分化し、ヒトの属するホモ・サピエンスは40万から25万年前に現れた。またこれらの他にも、すでに絶滅したヒト属の種が幾つか確認されている[1]。その中にはアジアに生息したホモ・エレクトゥスや、ヨーロッパに生息したホモ・ネアンデルターレンシスが含まれる。 ホモ・サピエンスの進化と拡散については、アフリカ単一起源説と多地域進化説とが対立している(#人類進化のモデル)。アフリカ単一起源説では、アフリカで「最も近いアフリカの共通祖先 (RAO)」であるホモ・サピエンスが進化し、世界中に拡散してホモ・エレクトゥスとホモ・ネアンデルターレンシスに置き換わったとしている。多地域進化説を支持している科学者は世界中に分散した単一のヒト属、おそらくホモ・エレクトゥスが各地でそれぞれホモ・サピエンスに進化したと考えている。 化石の証拠はこの分野における激しい議論を解決するのに十分ではない[2]。人類はホモ・ハビリスの頃から石器を使い始め、次第に洗練させてきた。およそ5万年前を境に現生人類の技術と文化は変わり始め、現代的行動がとられるようになった。 古人類学は化石、道具のような遺物、居住の痕跡などにもとづく古代の人類研究である。現代的な科学としての古人類学は、1856年のネアンデルタール人の発見から始まったが、初期の研究は1830年以来始まっていた[3]。1859年までに現生人類と大型類人猿の形態的な類似性は議論されていたが、同年11月にチャールズ・ダーウィンが『種の起源』を著すまで「生物の進化」という概念は一般には正当化されなかった。ダーウィンの進化に関する最初の本は人類の進化についてはほとんど何も述べなかった。「人類の起源と歴史に光が投げかけられるであろう。」 これがダーウィンが人類について述べた全てであった。それでも進化論の暗示は当時の読者にとって明らかだった[4]。 トマス・ハクスリーとリチャード・オーウェンの論争は人類の進化に集中した。ハクスリーは1863年の著書『自然の中の人類の位置』[5]で、類人猿と現生人類の多くの類似性と相違点について説得力を持って論じた。ダーウィンが『人間の由来と性選択』(1871)[6]でその問題について論じる頃までにはその問題は広く知られ議論の的であった。チャールズ・ライエルとアルフレッド・ウォレスのようなダーウィンの支持者の多くも、現生人類の象徴的な精神性と道徳的な感性が自然選択によって形作られたという考えを好まなかった。 カール・フォン・リンネの頃から類人猿と現生人類は非常に似ているように見えるために、科学者たちは類人猿は人類の最も近い親類かもしれないと考えていた。19世紀にはゴリラ、チンパンジー、オランウータンのいずれが現生人類にもっとも近縁か論争があった。ダーウィンはチンパンジーかゴリラと考え、人類の祖先の化石が見つかるとしたらアフリカだろうと予測した。エルンスト・ヘッケルはオランウータンを人類にもっとも近縁と見なし、東南アジアから人類の祖先の化石が発見されるだろうと予測した。アフリカからは多くの化石人類が発掘された。一方ヘッケルの予測を信じたウジェーヌ・デュボワはインドネシアのジャワ島トリニールでジャワ原人の化石を発見し、後にこれがヒト属のホモ・エレクトゥスの亜種であるホモ・エレクトス・エレクトスに分類されている。タウング・チャイルド
概要
古人類学の歴史
人類の祖先と思われる化石がアフリカで発見されたのはハクスリーやダーウィンの時代からしばらく後の1920年代であった[7]。1925年にレイモンド・ダートはアウストラロピテクス・アフリカヌスを記載した。模式標本は洞穴の中から発掘されたアウストラロピテクスの幼児で、タウング(英語版)の名にちなんでタウング・チャイルド(英語版)と呼ばれた。南アフリカ共和国にある発見地タウングの洞窟では、コンクリートの原料が採掘されていた。タウング・チャイルドの化石は非常に保存状態の良い頭蓋骨を保持しており、頭蓋腔を推定できた。脳は小さかったが(410cm3)、その形は洗練されており、チンパンジーやゴリラのものよりも現代人に似ていた。