処女翫浮名横櫛
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『与話情浮名横櫛』(よわなさけうきなのよこぐし)とは、歌舞伎の演目のひとつ。嘉永6年(1853年)5月、江戸中村座にて初演。九幕十八場。三代目瀬川如皐作。通称『切られ与三』(きられよさ)、『お富与三郎』(おとみよさぶろう)、『源氏店』(げんやだな[1])など。世話物の名作のひとつに数えられる。


目次

1 あらすじ

2 解説

3 主な初演時の配役

4 名科白

5 派生作品

6 脚注

7 参考文献

8 関連項目

9 外部リンク


あらすじ『与話情浮名横櫛』 「源氏店妾宅の場」の五代目尾上榮三郎のお富と五代目尾上菊五郎の与三郎。明治25年(1892年)9月、東京歌舞伎座

江戸の大店伊豆屋の若旦那(じつは養子)の与三郎は故あって身を持ち崩し、木更津の親類に預けられていた。春の潮干狩りの時分、木更津の浜をぶらついていた与三郎はお富とすれ違い、互いに一目惚れしてしまう(序幕・木更津浜辺の場)。

ところがお富は、地元の親分赤間源左衛門のだった。その情事は露見し与三郎は源左衛門とその手下にめった斬りにされるが、源左衛門はこの与三郎をゆすりの種にしようと、簀巻きにして木更津の親類のもとへ担ぎ込もうとする。いっぽうその場を逃げ出したお富は赤間の子分の海松杭の松に追われ入水するが、木更津沖を船でたまたま通りかかった和泉屋の大番頭多左衛門に助けられる(二幕目・赤間別荘の場、木更津浜辺の場)。

そしてそれから三年。与三郎はどうにか命を取り留めたものの家を勘当されて無頼漢となり、三十四箇所の刀傷の痕を売りものにする「向疵の与三」として悪名を馳せ、お富は多左衛門の妾となっていた。

或る日のこと。与三郎はごろつき仲間の蝙蝠安に連れられて、金をねだりに或る妾の家を訪れた。ところがそこに住む女の顔をよく見れば、なんとそれは三年前に別れたきりのお富である。片時もお富を忘れることのできなかった与三郎は、お富を見て驚くと同時に、またしても誰かの囲いものになったかと思うとなんとも肚が収まらない(ここで恨みと恋路を並べ立てる「イヤサこれお富、ひさしぶりだなア…」の名科白がある)。やがて多左衛門が来て、そのとりなしで与三郎と安は金をもらって引き上げる。お富は、多左衛門には与三郎を兄だと言い繕ったのだったが、じつは多左衛門こそがお富の実の兄であり、多左衛門は全てを承知の上で二人の仲をとりもとうとしていたのである。このあと多左衛門はお店からの呼び出しを受けて再び出掛け、和泉屋の番頭籐八がお富を手篭めにしようとするのを与三郎が助けるが、籐八が海松杭の松の兄であったことから赤間一味の悪事を知り、復讐を誓う。また刀傷を治す妙薬を知るなどのくだりがあって、与三郎が「命がありゃあ話せるなァ」とお富を引寄せるところで幕となる(三幕目・源氏店妾宅の場)。

その後の幕は和泉屋での与三郎の強請り、野陣ヶ原での与三郎の捕縛、続いて『嶋廻色為朝』(しまめぐりいろのためとも)という常磐津の所作事があり、女護が島に辿りついた源為朝と島の女たちとの色模様を見せるが、それは遠島になって島抜けをする途中の与三郎の見た夢であった。そして島を抜けた与三郎が下男忠助のはからいで、父親の伊豆屋喜兵衛にそれとなく会う情感豊かな「元山町伊豆屋の場」、平塚の土手で与三郎が赤間と再会する世話だんまりのあと、大詰は旧知の観音久次の自己犠牲で与三郎の傷痕が消える「観音久次内の場」となる[2]
解説『与話情浮名横櫛』 初演時に制作された芝居絵。左は八代目市川團十郎の向疵の与三、右は四代目尾上梅幸の赤間の愛妾お富[3]三代目歌川豊国画。

長唄四代目芳村伊三郎木更津で若い頃に体験した実話をもとにしたもので[4]、それが一立斎文車(乾坤坊良斎)などの講談となり、さらにそれを三代目瀬川如皐の脚本で舞台化したものである。当初は嘉永6年3月、『花??初役』(はなとみますやよいのはつやく)[5]という鏡山物の二番目に『与話情浮名の横ぐし』の外題で出された世話物だった[6]。ところがいざ幕を開けてみるとこの一番目の鏡山物が不評、二番目の『与話情浮名の横ぐし』が好評だったので、のちに5月になって『与話情浮名の横ぐし』に大幅な増補を行い、『与話情浮名横櫛』と外題も改め一日がかりの芝居にしたところ大当たりとなった。しかしこのときも番付には「全部十二冊」(十二幕)または「十六冊」と書かれてはいたものの、実際に上演されたのは八幕十三場であった。台本としては九幕十八場が伝わっている。

本作の成功は八代目市川團十郎の与三郎に拠るところが大きかった。生来のお坊ちゃんが色恋沙汰で与太者に転落し、いきがりつっぱてみても、どこか甘さとひ弱さが同居する。そんな役柄の与三郎に、八代目はニンがぴったりと合った。如皐の狙いもそこにあったとみられる。しかし江戸での大成功の翌年、その八代目が大坂での本作の初日を控えて謎の自殺を遂げると、以後幕末から明治にかけて本作はほとんど上演されなくなってしまう。

復活するのは明治末年になってからのことで、十五代目市村羽左衛門の与三郎、六代目尾上梅幸のお富、四代目尾上松助の蝙蝠安で「源氏店」が上演されると、これが大評判となる。十五代目羽左衛門のニンも与三郎にぴったり合ったのである。以後「源氏店」は大正から昭和のはじめまで繰り返し上演されるようになり、歌舞伎を代表する演目の一つとして定着した。「源氏店妾宅」 六代目尾上梅幸のお富。湯屋からの帰りの様子。

戦後十一代目市川團十郎の与三郎と七代目尾上梅幸のお富、または十五代目片岡仁左衛門の与三郎と五代目坂東玉三郎のお富というように、その時々の美形の組み合わせで上演されるのが特色となっている。ただし序幕の「木更津浜辺の場」と三幕目「源氏店妾宅の場」だけが演じられるのがふつうで、「源氏店」においても現在は和泉屋に行こうとする多左衛門がお富に実の兄だと明かすところで幕となる。本来の内容では多左衛門は兄だと明かさずに出かけて行き、そのあと妾宅の様子を伺って隠れていた与三郎が、ふたたびお富の前に現われて以降のくだりは、上演時間の都合もあってほとんど出されることがない。
主な初演時の配役

※三幕目までのもの。

与三郎…
八代目市川團十郎

お富…四代目尾上梅幸

赤間源左衛門、和泉屋多左衛門(二役)…三代目關三十郎

蝙蝠安…初代中村鶴蔵

海松杭の松、番頭藤八(二役)…中山市蔵

名科白

三幕目、源氏店妾宅の場より与三郎の名科白[7]。与三郎:え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。お 富:そういうお前は。与三郎:与三郎だ。お 富:えぇっ。与三郎:お主(のし)ゃぁ、おれを見忘れたか。お 富:えええ。与三郎:しがねぇ恋の情けが仇(あだ)命の綱の切れたのをどう取り留めてか 木更津からめぐる月日も三年(みとせ)越し江戸の親にやぁ勘当うけ拠所(よんどころ)なく鎌倉の谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても面(つら)に受けたる看板の疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに切られ与三と異名を取り押借(おしが)り強請(ゆす)りも習おうより慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんじだな)その白化(しらば)けか黒塀(くろべえ)に格子造りの囲いもの死んだと思ったお富たぁお釈迦さまでも気がつくめぇよくまぁお主(のし)ゃぁ 達者でいたなぁ安やいこれじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ帰(けぇ)られめぇじゃねぇか。
派生作品

八幡祭小望月賑』(はちまんまつりよみやのにぎわい)通称『縮屋新助』
本作の後日譚として、二代目河竹新七(黙阿弥)四代目市川小團次のために書いたもの。江戸に出てきた源左衛門がお富に瓜ふたつの芸者・おりよに横恋慕したことから、越後の商人・新助が悲劇に巻きこまれる。明治から大正にかけて初代中村吉右衛門が新助を、昭和では六代目中村歌右衛門がおりよを、それぞれ当たり役とした。『処女翫浮名横櫛』より
三代目澤村田之助のお富と四代目中村芝翫の赤間源左衛門 (豊原国周画)


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