凌雲閣
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公園四区の大池(通称「瓢?池」)から見た凌雲閣。
手前の「仁丹」は活動写真館「千束館」の屋上看板。
情報
用途展望台、店舗等
設計者ウィリアム・K・バルトン
管理運営凌雲閣株式会社、十二階株式会社
構造形式赤煉瓦・木造
建築面積122.31 m²
状態解体
階数12
高さ52メートル
開館開所1890年11月11日
改築1911年1914年
解体1923年9月23日9月1日関東大震災により半壊していた[1]
所在地東京府東京市浅草区
千束町二丁目三十八番地
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度42分56.7秒 東経139度47分35.5秒 / 北緯35.715750度 東経139.793194度 / 35.715750; 139.793194 (凌雲閣(りょううんかく))座標: 北緯35度42分56.7秒 東経139度47分35.5秒 / 北緯35.715750度 東経139.793194度 / 35.715750; 139.793194 (凌雲閣(りょううんかく))
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凌雲閣(りょううんかく)は、明治時代東京大阪に建てられた眺望用の高層建築物である。東京の凌雲閣は、1890年竣工の高さ52m・12階建て、大阪の凌雲閣は、1889年竣工の高さ39m・9階建てだった。

東京の凌雲閣は浅草に建てられたことから「浅草十二階」と呼ばれ名所として知られ、大阪・新世界通天閣(初代)、神戸・新開地神戸タワーとともに「日本三大望楼」と称された[2]が、1923年大正12年)9月1日に発生した関東大震災で半壊[1]して撤去され、「キタの九階」と呼ばれた大阪の凌雲閣とともに現存しない。
概要凌雲閣があったとされる場所(背景図はOpenStreetMapをもとに作成)

明治20年代に高所からの眺めを売り物にした望楼建築がブームとなり、富士山縦覧場(東京浅草、1887年)、眺望閣(大阪日本橋、1888年)に続いて、大阪と東京に相次いで同じ「凌雲閣」と名付けられた眺望塔が建てられた[3]

東京の浅草凌雲閣は、浅草公園に建てられた12階建ての展望塔[注釈 1][4]。1890年(明治23年)竣工。当時の日本で最も高い建築物であったが、1923年(大正12年)の関東大震災で半壊し、解体された。名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する。日本初の電動式エレベーターを備え、「浅草十二階」、あるいは単に「十二階」という名でも知られている[5]

大阪の凌雲閣は、浅草の凌雲閣より1年早い建設で、大阪府西成郡北野村(現:大阪市北区)の和風庭園「有楽園」内に9層楼として建てられた[3]。大阪ミナミにあった5階建ての「眺望閣」が「ミナミの5階」と呼ばれたのに対して、「キタの九階」と呼ばれた[6]
浅草凌雲閣

浅草凌雲閣は、起案者は長岡新潟県)の豪商であった福原庄七、基本設計者は英国人技師のウィリアム・K・バルトン(バートン)、土木工事監督は伊澤雄司であった [7]。また、凌雲閣株式会社が設立され[8]、初代社長として写真家で東京市会議員としても知られる江崎礼二が就任した [9]

東京における高層建築物の先駆けとして建築され、日本初の電動式エレベーターが設置され、その設計にあたったのは当時東京電燈株式会社の技師で東芝の前身の一つとなる白熱舎(のちの東京電気)を創業した藤岡市助と報道された[10]。なお、設計者のバルトンは設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、施工には反対したと後に親族は語っている[11]。電話設備は宣伝を目的として沖牙太郎が担当した[12][13]

完成当時は12階建ての建築物は珍しく、モダンで、歓楽街・浅草の顔でもあった。明治・大正期の『浅草六区名所絵はがき』には、しばしば大池越しの凌雲閣が写っており、リュミエールの短編映画にもその姿が登場する。1892年に来日したアメリカ人貿易商ロバート・ガーディナーは「レンガ造りのこの建物は高さ320フィートで最上階の3階まで電動エレベーターが備わっているが、手入れが行き届いておらず、階段を上った」[14]としつつも、各階に飾られた絵や塔からの眺めの素晴らしさから東京観光でまず行くべき場所の一つであると薦めている[15]。展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができた[16]

1890年の開業時には「日本のエッフェル塔だ」(フランス首都パリのエッフェル塔は前年1889年開業)と多数の見物客で賑わったが、明治末期には客足が減り、経営難に陥った。1911年6月1日に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだ[17]。また隣地には、1912年2月「浅草国技館」が開館した[18][19]

浅草十二階の下の一帯は銘酒屋街となっており、実態としては私娼窟と化していた[20]。それにより浅草で「十二階下の女」と言うと娼婦の隠語を意味した。

1923年(大正12年)5月には福助足袋の広告看板が設置される[21]

しかし、同年9月1日に発生した関東大震災によって、建物の8階部分から上部が折れる形で倒壊した[1]。地震発生当時、頂上展望台付近には12 - 13名の見物者がいたが、福助足袋の看板に引っかかり助かった1名を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死した[22]

経営難から復旧が困難であったため再建は断念され、同年9月23日陸軍赤羽工兵隊によって爆破解体された[23]。爆破解体にはたくさんの見物人が集まっていたとされており、当時の新聞は「明治二十四年来の名物は永遠に地上から去った」と報じた[23][24]

その後、十二階下の銘酒屋街は浅草での復興が認められず、昭和初期にかけて隅田川東岸の玉の井などに移ることとなる。

徳永柳州『第一震十二階の崩壊』(東京都慰霊堂所蔵)

震災後の凌雲閣[25]

爆破の瞬間

完成当時のデータ凌雲閣

開業日:1890年11月11日

当初11月10日と報じられた[26]が、来賓の都合で翌11日に繰り延べられた[7]。エレベーターの日(11月10日)はこの当初の報道にちなんでいる。


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