冷泉為広
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例冷泉為広
時代室町時代後期 - 戦国時代
生誕宝徳2年(1450年
死没大永6年7月23日1526年8月30日
改名為広→宗清(号)
官位正二位権大納言
主君足利義澄
氏族上冷泉家
父母父:冷泉為富
妻丹波重長の娘
為和、応猷、尊俊、孝我、将軍家女房
テンプレートを表示

冷泉 為広(れいぜい ためひろ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿歌人権大納言・冷泉為富の子。官位正二位・権大納言。上冷泉家6代当主。
経歴

文明9年(1477年)、従三位に叙位。文亀元年(1501年)に正二位に昇り、永正3年(1506年)に権大納言兼民部卿に至る。11代将軍・足利義澄室町幕府相伴衆を務め、永正5年(1508年)に義澄が将軍職を追われると、それに従って出家して宗清と号した。

能登国守護能登畠山氏と最も親しく、能登に長らく在国し、同国で薨去したともいわれる。

歌人としては、『為広卿集』『為広詠草』などの歌集が伝わる。
文献における記載

耳嚢』巻之一「為広塚の事」に以下の記述がある。加賀・能登の境に、冷泉為広の歌塚といへる物有し由。左に記す。季世尓残牟為広塚加能跡動無建碑如斯にて歌に詠じ侍れば、すゑの代に残さんがため広塚のあと動ぎなくたつる石ふみ
系譜

注記のないものは「御子左系図」『続群書類従』巻第148所収による。

父:冷泉為富

母:不詳

妻:丹波重長の娘[1]

男子:冷泉為和(1486年 - 1549年)

男子:応猷


生母不明の子女

男子:尊俊

男子:孝我

女子:将軍家女房


脚注^ 「御子左冷泉系図」『系図綜覧』第二所収、『諸家知譜拙記』

出典

根岸鎮衛耳嚢』全3冊 長谷川強校注、岩波書店岩波文庫〉、1991年。 - 江戸時代の随筆。冷泉為広についての逸話を収録。

関連項目

畠山家俊

畠山義総

津幡町










冷泉家6代当主
上冷泉家
為相

為秀

為尹

為之

為富

為広

為和

為益

為満

為頼

為治

為清

為綱

為久

為村

為泰

為章

為則

為全

為理

為紀

為系

為臣

為任

為人

下冷泉家
持為

政為

為孝

為豊

為純

為勝

為将

為景

為元

為経

為俊

宗家

為栄

為訓

為起

為行

為柔

為勇

為安

為弘

典拠管理データベース
全般

FAST

ISNI

VIAF

WorldCat

国立図書館

アメリカ

日本

学術データベース

CiNii Books

CiNii Research


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:7956 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef