冷泉天皇
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冷泉天皇
第63代天皇
在位期間
967年7月5日 - 969年9月27日
康保4年5月25日 - 安和2年8月13日
即位礼967年11月15日(康保4年10月11日
大嘗祭968年12月16日(安和元年11月24日
元号康保
安和
時代平安時代
先代村上天皇
次代円融天皇

誕生950年6月12日天暦4年5月24日
五条邸
崩御1011年11月21日寛弘8年10月24日
冷泉院
大喪儀1011年12月13日(寛弘8年11月16日
陵所桜本陵
追号冷泉院
(冷泉天皇)
諱憲平
元服963年3月26日応和3年2月28日
父親村上天皇
母親藤原安子
中宮昌子内親王朱雀天皇皇女)
女御藤原懐子
藤原超子
藤原?子
子女花山天皇
三条天皇
ほか(后妃・皇子女節参照)
皇居大内裏
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冷泉天皇(れいぜいてんのう、950年6月12日天暦4年5月24日〉- 1011年11月21日寛弘8年10月24日〉)は、日本の第63代天皇(在位:967年7月5日康保4年5月25日〉- 969年9月27日安和2年8月13日〉)。は憲平(のりひら)。

村上天皇の第2皇子で、母は藤原師輔の娘・中宮安子円融天皇の同母兄。
略歴

第2皇子であったが、異母兄の広平親王を押しのけて、生後間もなく立太子。時の権力者である藤原実頼・師輔の兄弟の力が働いていたと思われる。康保4年(967年)、村上天皇の崩御を受けて18歳で即位。この時初めて紫宸殿即位式を行った。気の病みがあり皇太子の時代から問題になっていたことから、補佐として藤原実頼が関白につき後継の検討に入る。しかし2人の同母弟、為平親王左大臣源高明が推す村上天皇第四皇子)と守平親王右大臣藤原師尹が推す村上天皇第七皇子)との皇太子(皇太弟)をめぐる対立が起き、藤原氏の後ろ楯を受け皇太弟には守平親王が立った(村上天皇の遺命とする説もある[1])。さらに対立は安和の変に発展、源高明は左遷され安和2年(969年)8月、同母弟の円融天皇に譲位し、太上天皇となる。実頼は関白から摂政に移るが以降藤原氏の摂関職設置が常態化した。譲位後は冷泉院と称される。62歳で崩御。記録では死因は赤痢とされている[2]

以後後一条天皇の即位まで約50年間、弟の円融系との皇位迭立が続き、円融系を父方、冷泉系を母方とする曾孫の後三条天皇の即位で両皇統は融合されることとなった。
在位中の重臣一覧在位中の重臣一覧

年月日(西暦)摂政関白太政大臣左大臣右大臣内大臣大納言権大納言中納言権中納言参議
康保4年5月25日
(967年7月5日)
藤原実頼源高明藤原在衡藤原師尹源兼明藤原師氏橘好古藤原伊尹源雅信小野好古源重信藤原朝成藤原頼忠源重光源延光藤原文範
康保4年6月22日
(967年7月31日)藤原実頼藤原実頼源高明藤原在衡・藤原師尹源兼明藤原師氏・橘好古藤原伊尹源雅信・小野好古・源重信・藤原朝成・藤原頼忠・源重光・源延光・藤原文範
康保4年7月7日
(967年8月15日)藤原実頼藤原実頼源高明藤原在衡・藤原師尹源兼明藤原師氏・橘好古藤原伊尹源雅信・源重信・藤原朝成・藤原頼忠・源重光・源延光・藤原文範
康保4年10月7日
(967年11月11日)藤原実頼藤原実頼源高明藤原在衡・藤原師尹源兼明藤原師氏・橘好古藤原伊尹源雅信・源重信・藤原朝成・藤原頼忠・源重光・藤原斉敏・源延光・藤原文範
康保4年12月13日
(968年1月15日)藤原実頼藤原実頼源高明藤原師尹藤原在衡・源兼明藤原伊尹藤原師氏・橘好古源雅信・源重信・藤原朝成・藤原頼忠・源重光・藤原斉敏・源延光・藤原文範
康保5年2月5日
(968年3月6日)藤原実頼藤原実頼源高明藤原師尹藤原在衡・源兼明藤原伊尹藤原師氏・橘好古・藤原頼忠源雅信・源重信・藤原朝成・源重光・藤原斉敏・源延光・藤原文範
安和2年正月27日
(969年2月16日)藤原実頼藤原実頼源高明藤原師尹藤原在衡・源兼明藤原伊尹藤原師氏・橘好古・藤原頼忠源雅信・源重信・藤原朝成・源重光・藤原斉敏・藤原兼通・源延光・藤原文範
安和2年2月7日
(969年2月25日)藤原実頼藤原実頼源高明藤原師尹藤原在衡・源兼明藤原伊尹藤原師氏・橘好古・藤原頼忠・藤原兼家源雅信・源重信・藤原朝成・源重光・藤原斉敏・藤原兼通・源延光・藤原文範
安和2年3月26日
(969年4月15日)藤原実頼藤原実頼藤原師尹藤原在衡源兼明・藤原伊尹藤原師氏橘好古・藤原頼忠・藤原兼家源雅信・源重信・藤原朝成・源重光・藤原斉敏・藤原兼通・源延光・藤原文範

冷泉天皇の奇行

後世の説話等には、以下のように、皇太子時代から気の病ゆえの奇行が目立ったと記されている。ただしこれらの逸話は、皇統が冷泉天皇の系統から円融天皇の系統に移ったことを背景に、これを正統化するという政治的思惑があり得ることを指摘する見解もある[3]

足が傷つくのも全く構わず、一日中蹴鞠を続けた。(「元亨四年具注暦井裏書」)

幼い頃、父帝(村上天皇)に手紙の返事として、陰茎が大きく描かれた絵を送りつけた。(「元亨四年具注暦井裏書」)

清涼殿近くの番小屋の屋根の上に座り込んだ。(「元亨四年具注暦井裏書」)

病気で床に伏していた時、大声で歌っていた[4]

退位後に住んでいた御所が火事になった折、避難するときに牛車の中で大声で歌った[5]

その奇行のふるまいは、実は外戚の地位を奪取された藤原元方の祟りであるとも『大鏡』は伝えている。しかし普段は気の病を持つようには見えない、容姿端麗な人物だったともされる[6]

当時の摂政だった藤原実頼と外戚関係を持たず、逆に有力な跡継ぎとされていた為平親王が伯父の源高明を舅とし、藤原氏を刺激した(安和の変の伏線となる)ことなどが、わずか2年で退位する原因となった。

譲位の後、冷泉院に11年の間住んだことから冷泉院と呼ばれ、上皇生活を42年過ごした後、東三条南院にて62歳で崩御。花山天皇をはじめとする皇子女や弟円融天皇、甥の一条天皇等多くの親族に先立たれた。
系譜

冷泉天皇の系譜

                 

 16.
第58代 光孝天皇
 
     

 8. 第59代 宇多天皇 
 
        

 17. 班子女王
 
     

 4. 第60代 醍醐天皇 
 
           

 18. 藤原高藤
 
     

 9. 藤原胤子 


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