冬木弘道
[Wikipedia|▼Menu]

冬木 弘道
プロフィール
リングネーム冬木 弘道(ふゆき こうどう)
冬木 弘道(ふゆき ひろみち)
サムソン冬木
本名冬木 弘道(ふゆき ひろみち)
ニックネーム理不尽大王
マッチョバディ
革命の志士
爆烈ファイター
身長180cm
体重128kg
誕生日
1960年昭和35年)5月11日
死亡日 (2003-03-19) 2003年3月19日(42歳没)
出身地東京都江東区
トレーナーマイティ井上
天龍源一郎
ハル薗田
デビュー1980年5月4日
引退2002年4月14日
テンプレートを表示

冬木 弘道(ふゆき こうどう〈本名:ひろみち〉、1960年昭和35年〉5月11日 - 2003年平成15年〉3月19日)は、日本の元男性プロレスラー血液型A型。東京都江東区生まれ、神奈川県横浜市育ち。横浜商科大学高等学校出身。身長180cm、体重128kg。旧リングネームは、同じ表記で本名の冬木 弘道(ふゆき ひろみち)、サムソン冬木(Samson Fuyuki)。
来歴
国際プロレス時代

横浜商科大学高等学校卒業後、1979年昭和54年)5月6日に国際プロレスへ入門する[1]

デビュー戦は1980年5月4日北海道紋別市スポーツセンターの米村勉(後の米村天心)戦。国際では高杉正彦・菅原伸義(後のアポロ菅原)とともに「若手三羽烏」と呼ばれた。
全日本プロレス時代

1981年8月9日に国際プロレスが解散し、その後全日本プロレスに移籍。天龍源一郎の付き人を務めた。この時期、同じ若手だった三沢光晴と一緒に海へ遊びに行くなどして仲が良かった。1983年に行われたルー・テーズ杯争奪リーグ戦にも参加したが、1勝5敗1分の成績に終わる(優勝は越中詩郎)。1984年11月に海外初遠征。テキサス州サンアントニオ地区では川田利明とのタッグチーム「ジャパニーズ・フォース」で活動、若手時代のショーン・マイケルズ&ポール・ダイヤモンドの「アメリカン・フォース」と抗争を展開した[2]

1985年12月、体重を増加させて帰国後にジャイアント馬場の命名により「サムソン冬木」へ改名する。海外遠征中には国際プロレスのエース格だったラッシャー木村が全日本に移籍し、鶴見五郎・高杉・菅原と国際崩壊直前に新日本プロレスへ移籍していた剛竜馬も加入した上で「国際血盟軍」を率いていたが、冬木はマイティ井上共々「国際血盟軍」には加入しなかった。国際出身者でジャパンプロレスアニマル浜口寺西勇も海外遠征直前に全日本へ移籍していた。国際血盟軍や浜口・寺西の元国際所属選手で格上だった選手とシングルやタッグで対戦をしており、1986年3月に剛・高杉と共に全日本を整理解雇された菅原の全日本プロレス最終試合の対戦相手も務めている[3]

1987年3月に再び海外遠征し、プエルトリコ地区では風貌が似ていたこともあり「リキ・チョーシュー」を名乗った。帰国後は天龍同盟に参加する。川田利明とのコンビ「フットルース」を結成したが、川田が天龍とのタッグが増えて来た関係で冬木は孤立していった。1989年の第1回あすなろ杯争奪リーグ戦で準優勝を果たしている。ちなみに優勝したのは川田であった。
SWS時代

天龍同盟と対立していた全日本正規軍のエースであるジャンボ鶴田は、伸び悩んでいた冬木に対し手を差し伸べて握手を交わす。今後は正規軍入りをして鶴田らと共闘するかと思われたが、1990年に全日本プロレスを離脱してSWSへ入団する[4]。再度天龍と共にして「レボリューション」派の一員として活動を始めている。
WAR時代

1992年にSWS内部で対立が起きた際にも天龍と行動を共にし、SWS崩壊後に天龍が興したWARに参加。リングネームを本名に戻した。

1994年頃から天龍らWAR正規軍と敵対する反体制側に回り、冬木軍として邪道外道との3人トリオで活躍した。新日本プロレスIWAジャパン新格闘プロレスFMWにも参戦して幅広く活躍する。冬木は「理不尽大王」を自称し、リング上でコントを披露するなど愛嬌のあるヒールとしてのイメージを定着させた。
インディー団体時代

1996年10月を最後にWARを離脱し、邪道・外道と共に『冬木軍プロモーション』を設立した。冬木軍として東京プロレスを母体に計画されていたインディペンデント団体の統一機構となる「FFF」[5]に参加を表明したが、資金難によりFFFが正式立上前に崩壊すると冬木軍として興行を行う一方で、他団体への参戦を模索した。1997年4月に岐阜県大垣市で、冬木軍としての旗揚げ戦を開催している。同年7月には長崎NCC&スタジオにおいて、日本プロレス界初となる男子対女子のシングルマッチをライオネス飛鳥と行っている。なおこの試合は邪道・外道の加勢を受けた冬木が勝利している。またこの頃にリングネームの下の名前の読みを「こうどう」に変更した[注釈 1]

その後はFMWに再び参戦し活躍する。ミスター雁之助金村キンタローらとTNR (チーム・ノー・リスペクト)を結成し、創始者である大仁田厚をFMWから追放することに成功。その後もハヤブサら正規軍を苦しめる反面『ブリーフブラザーズ』というユニットを結成する。白のバスローブと合わせて真っ白なブリーフ姿で参加し、コントを披露していた[8][9]。TNR解散後も冬木は井上京子チョコボール向井らとECW JAPAN軍を率いて活躍し、その一方でFMWのコミッショナーに就任するなど、リング内外で団体を牛耳るパフォーマンスはリング上だけに留まらない新世代のヒールスタイルといわれた。また邪道・外道・冬木の3人トリオで『理不尽音頭』[10]というシングル盤CDを発売しており、歌手デビューも果たしている。

1995年11月には早稲田大学である「早稲田祭」で、プロレス研究会“爆烈”主催の『冬木軍理不尽道』と題する講演会に邪道・外道と共に出演した。また自身の娘の小学校の講演会にも出席し[11]、その時には「僕は意外だと思われるんだけど、小学校の頃はね、体育給食が大嫌いな子供だったんだよ」と自身の小学生の頃を振り返っている。なおその講演会が終わった後に、冬木の周りには沢山の子供達が集まって来て囲まれる程の人気者となり「今日はまるで大仁田(厚)になった気分だよねぇ?」と満面の笑顔で答えている。これは普段、自身のプロレススタイルが「ヒール」という立場であり、毎回大仁田のように沢山のファンに囲まれる機会が無いためでもあった。

2001年10月27日、川田利明とシングル対戦したが敗退した。その後、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に天龍と組んで出場。2002年2月のFMW経営破綻後、3月に自ら主宰する団体としてWEWを設立し、5月に川崎球場で旗揚げ戦の開催を発表している。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:95 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef