長谷川雪旦 『魚類譜』より「'"`UNIQ--templatestyles-00000001-QINU`"'海獺(かいだつ) アシカ」[1]/文政5年と文政13年(1822年と1830年。江戸時代後期中葉)の作。大きいほうは肥前国松浦郡唐房村(現・佐賀県唐津市唐房)[注 1][gm 1]の海辺に漂着した死体を写生・解剖したもので[1]、ニホンアシカと推定されている。小さいほうは肥前国長崎湊(現在の長崎港の原初的一角、長崎市出島町近辺)[gm 2]にて鉄砲で撃ち獲られた個体を写生したもので、種は特定できない。これらは本草学的視点で記されており、史料としては元より博物学的価値も高い。雪旦は江戸の人であるが、御用絵師として各地で機会を得ては生物・名所・風俗などを精力的に描き留めた。そういった姿勢が挿図を担当した代表作『江戸名所図会』に繋がっている。上の2図は唐津藩の御用絵師として唐津城下に滞在していた時代のものである[1]。円山応挙 『牡丹孔雀図』/安永5年(1776年、江戸時代後期前半)の作。
写生(しゃせい)とは、絵画などにおいて、事物を見たままに写しとることをいう[2][3][4][5][6][7]。主観的な表現を表す「写意」の対立概念である[5][8]。 現在は「スケッチ」「デッサン」などの訳語として用いられることが多いが、東洋絵画における写生は描写対象に直接対することによって、「写意」と密接に関係しつつ[9]、形式にとらわれずに対象の本質に迫ろうとする性格を持つものであり、西洋の写実的絵画とは共通する点を持ちながらも相異なるものである[6][5]。日本語としての「写生」も、近代以前にはより広い意味で使われていた言葉であった。 また、西洋絵画由来の写生(スケッチ)を応用したものとして、俳句・短歌を中心に文学の分野においても写生概念が用いられている。以下これらについて解説する。 「写生」の語は中国・唐代の末期において、先人の画を写しとる方法を指す伝統的な「臨画」に対し、現実の事物を観察しつつ描写する写実的傾向を表すために用いられていた言葉であった[6]。この「写生」は、宋代には動植物など生き物を直接描写する言葉として使われ、以後中国ではもっぱら花鳥画の分野で用いられていた[6][10]。 日本においては、事物をありのままに描く観察態度としての「写生」は鎌倉時代からすでに見られるものであった[11]。江戸時代においては写生は本草学と結びつき、御用絵師であった狩野派の画家は幕府からの命を受けて動植物を写生(後述の「対看写生」)によってしばしば描いている[12]。18世紀にはオランダ絵画の輸入に伴って円山応挙が写生を重んじ「写生派」と呼ばれた[6][11]。
概要
美術における写生