冊封体制
[Wikipedia|▼Menu]

冊封体制(さくほうたいせい)とは、近代までの東アジアにおいて、中国の歴代王朝と周辺諸国・諸民族が形成した国際秩序のこと。称号・任命書・印章などの授受、つまり冊封(さくほう、さっぽう)を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を理念上の中核とする。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。
定義

冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「冊封国」の側は

「臣」の名義で「方物」(土地の産物)を献上

「正朔」を奉ずる(「天子」の元号と天子の制定した暦を使用すること)

などを行った[1]

「方物」は元旦に行われる「元会儀礼」において展示され、「天子」の徳の高さと広がり、献上国の「天子」に対する政治的従属を示した[2]。「方物」の献上を「朝貢」といい、「朝貢」を行う使節を「朝貢使」と称する。朝貢使は指定された間隔(貢期)で、指定されたルート(貢道)を通り、指定された「方物」を「天子」に献上し、併せて天子の徳をたたえる文章を提出する。これを「職貢」と称する。宗主国と朝貢国の相互関係は、つづめて「封貢」と称された[1]
概要.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "冊封体制" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2016年9月)

冊封の原義は「冊(文書)を授けて封建する」と言う意味であり、封建とほぼ同義である。

冊封を受けた国の君主は、王や侯といった中国の爵号を授かり、中国皇帝と君臣関係を結ぶ。この冊封によって中国皇帝の(形式的ではあるが)臣下となった君主の国のことを冊封国という。このようにして成立した冊封関係では、一般に冊封国の君主号は一定の土地あるいは民族概念と結びついた「地域名(あるいは民族名)+爵号」という形式をとっており、このことは冊封が封建概念に基づいていることを示しているとともに、これらの君主は冊封された領域内で基本的に自治あるいは自立を認められていたことを示している。したがって、冊封関係を結んだからといって、それがそのまま中国の領土となったという意味ではない。冊封国の君主の臣下たちは、あくまで君主の臣下であって、中国皇帝とは関係を持たない。冊封関係はこの意味で外交関係であり、中華帝国を中心に外交秩序を形成するものであった。

冊封国には毎年の朝貢、中国の元号(正朔)を使用することなどが義務付けられ、中国から出兵を命令されることもあるが、その逆に冊封国が攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることができる。

ただし、これら冊封国の義務は多くが理念的なものであり、これを逐一遵守する方がむしろ例外である。例えば、朝貢の頻度は、冊封国側の事情によってこれが左右される傾向が見られる。正朔についても、中国向けの外交文書ではこれを遵守するが、国内向けには独自の年号・暦を使うことが多い。またこれら冊封国の違約については、中国王朝側もその他に実利的な理由がない限りは、これをわざわざ咎めるようなことをしないのが通例であった。

冊封が行われる中国側の理由には、華夷思想・王化思想が密接に関わっている。華夷思想は世界を「文明」と「非文明」に分ける文明思想である。中国を文化の高い華(=文明)であるとし、周辺部はを知らない夷狄(=非文明)として、峻別する思想である。これに対して王化思想は、それら夷狄が中国皇帝のを慕い、礼を受け入れるならば、華の一員となることができるという思想である。つまり夷狄である周辺国は、冊封を受けることによって華の一員となり、その数が多いということは皇帝の徳が高い証になるのである。また実利的な理由として、その地方の安定がある。

冊封国側の理由としては、中国からの軍事的圧力を回避できることや、中国の権威を背景として周辺に対して有利な地位を築けること、また、当時は朝貢しない外国との貿易は原則認めなかった中国との貿易で莫大な利益を生むことができる、などがあった。また、冊封国にとっては冊封国家同士の貿易関係も密にできるという効果もあった。なお朝貢自体は冊封を受けなくとも行うことができ、この場合は「蕃客」(蕃夷の客)という扱いになる。また時代が下ると、朝貢以外の交易である互市も行われるようになり、これら冊封を受けないで交易のみを行う国を互市国と呼ぶようになる。

冊封の最も早い事例としては前漢初期に南越国衛氏朝鮮がそれぞれ南越王、朝鮮王に冊封されたことが挙げられる。その後、時代によって推移し、代にはインド以東の国ではムガル帝国と鎖国体制下の日本を除いて冊封を受けていた。
「冊封」を媒介とした「天子」と周辺諸国・諸民族の外交の歴史
周?漢と近隣諸国・諸民族

この節の加筆が望まれています。

委奴王国

倭国後漢と外交交渉をもったのは、以下の史料が示すように倭奴国王が後漢の光武帝に朝貢したのが始まりである。『後漢書』東夷伝によれば、建武中元2年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され印綬漢委奴国王印を与えられたという。
朝鮮半島

朝鮮半島では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路ぞいに、中国系商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた[3]戦国時代は「朝鮮」(朝鮮半島北部)、真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地に砦を築いて官吏を駐在させ、中国商人の権益を保護していた[4]代は遼東郡の保護下にあった[5]。秦末漢初の混乱の中、復活した燕国は官吏と駐屯軍を中部・南部(清川江以南)から撤退させた。紀元前197年、漢王朝は燕国を大幅に縮小して遼東郡を直轄化したが、その際、燕人の衛満が清川江を南にこえ、仲間ともに中国人・元住民の連合政権を樹立した。漢の遼東大守は皇帝の裁可をえてこの政権を承認し、朝鮮王国が成立した[6]
南越王国

中国南部から東南アジアにいたる交易ルートは、戦国時代、が掌握していたが、にいたり、百越とよばれた原住民を征服し、桂林郡広西)、南海郡広東)、象郡(ベトナム北部)の3郡を置いた。秦末の混乱期、南海郡の司令官趙佗はこの3郡を押さえて独立政権を樹立し、南越王と自称した。漢は建国初期、趙佗の政権を承認し、「南越王」の称号も認めた[7]
三国?南北朝と近隣諸国・諸民族

この節の加筆が望まれています。

倭王国

魏の皇帝は[8]制書を発して卑弥呼に下賜品を与えるとともに、卑弥呼を「親魏倭王」に任じてその証である金印を与えた。
隋・唐と近隣諸国・諸民族

この節の加筆が望まれています。

唐の帝国秩序[9]

貢賦(調庸物・貢献物)と版籍(地図と戸籍)とを定期的に中央政府に納入する内地諸州(10道315州県)

王朝に服属した蕃夷が貢賦(調庸物・貢献物)と版籍(地図と戸籍)を不定期に納入し、長官を世襲する羈縻諸州(800州府)

突厥契丹渤海回鶻堅昆突騎施


王朝から冊封を受けて中華秩序に組み込まれ貢献を定期的に行う蕃夷

靺鞨吐蕃室韋新羅南詔吐火羅諸国


貢物のみを不定期に朝貢する遠夷(入蕃)

日本林邑扶南


宋・元・明と近隣諸国・諸民族

この節の加筆が望まれています。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:58 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef