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つぶらや はじめ
円谷 一
映画評論社『映画評論』7月号(1962)より
別名義東京一
生年月日 (1931-04-28) 1931年4月28日
没年月日 (1973-02-09) 1973年2月9日(41歳没)
出生地東京都
民族日本人
ジャンル映画監督、演出家、脚本家、作詞家
活動期間1954年 - 1973年
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円谷 一(つぶらや はじめ、1931年(昭和6年)4月23日[1] - 1973年(昭和48年)2月9日[2])は、演出家、プロデューサー。円谷プロダクションの2代目社長。作詞家として、東 京一(あずま きょういち)の名義がある[3]。父は初代社長で特技監督の円谷英二[3]。 学習院大学卒[4][5]。19歳の時にキリスト教の洗礼を受ける(洗礼名パウロ)[1]。 KRT入社前年に、父・英二が特撮を手掛けた映画『ゴジラ』に参加[4][6]。 1955年にラジオ東京→KRT(テレビ事業は現在のTBSテレビ)に入社[6][5]。演出部にてディレクターとしてテレビドラマを制作[7][3][5]。『おトラさん』や「純愛シリーズ」といった作品にも演出として携わっていた[7][5]。 中でも、1962年に「東芝日曜劇場」で放送された『煙の王様』(脚本:生田直親)は、芸術祭文部大臣賞を受賞するなど高い評価を得た[8][5]。特に子供の描写が得意とされた[5]。 1963年、TBSがテレビ映画の自社製作を行なうために映画部門を新設すると、飯島敏宏、中川晴之助らとともに映画部門に移籍する[8][5]。翌1964年には円谷プロダクション取締役に就任[8]。同年、TBS初の特撮テレビ映画『ウルトラQ』の制作にあたった[7][3][5]。『ウルトラQ』、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』といった特撮番組の監督を務め、奇抜な演出方法が周囲に理解されずTBSで干されていた実相寺昭雄を拾うなど、シリーズの隆盛に力を尽くした。 円谷一が『ウルトラマン』で監督を務めた「ミイラの叫び」や「オイルSOS」に登場する怪獣(ドドンゴ、ペスター)は、彼の意見を採り入れ、いずれもぬいぐるみ(着ぐるみ)に演技者が二人入る斬新な手法だった[5]。 1969年、父・英二の体調悪化によりTBSを退社し(最終肩書はテレビ本部編成局映画部副部長兼プロデューサー・副参事)、円谷プロダクションに入社[9]。1970年、英二の病死により円谷プロダクションの2代目社長に就任[9][3][5]。財政難から、危機的な経営状況にあった同社の経営建て直しに奔走する。社長と監督は兼任できないと宣言して、以降はプロデューサーとして作品に携わるようになる。同年先述の理由により低予算で、『ウルトラファイト』の制作を開始。この番組の人気により、本格的な特撮番組を求める声が高まると、1971年に『帰ってきたウルトラマン』と『ミラーマン』(フジテレビ)をプロデューサーとして制作し、第二次怪獣ブームの火付け役となる。 以降、『ウルトラマンA』などの番組の制作にも携わるが、社長就任以降、営業や接待に奔走した結果、持病だった糖尿病、および高血圧が悪化[5]。妻と離婚し、赤坂のクラブのママと再婚するなど、生活も乱れた。1973年2月9日、起床直後に脳溢血を発症して突然倒れ、病院に搬送されたが間もなく死去[2][5][10]。享年41。父親の死からわずか3年後のことである。 円谷プロは英二・一父子の相次ぐ死去や番組の失敗などの不幸が相次いだ。この厄払いの意味で1973年4月22日に二子玉川園において、同社で制作された番組で命を落とした怪獣達の供養が行われた。また、撮影で用いたぬいぐるみの火葬も執り行われた。これには円谷プロ関係者のほか、篠田三郎をはじめとする当時放送中の『ウルトラマンタロウ』・『ファイヤーマン』・『ジャンボーグA』の各出演者が列席し、司会は岸田森が行なった。
来歴
TBS時代
ウルトラシリーズ
円谷プロ社長就任
怪獣供養
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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