円爾
建仁2年10月15日(1202年11月1日)
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弘安3年10月17日(1280年11月10日)
号円爾
諡号聖一国師
生地駿河国(静岡県)
宗旨臨済宗
寺院承天寺・東福寺・回春院
師久能山久能寺の堯弁
上野国長楽寺の栄朝
鎌倉寿福寺の行勇
余杭径山寺の無準師範
弟子鉄牛円心、東山湛照
廟
医王山回春院東福寺開山堂常楽庵
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聖一国師(円爾)像 明兆筆 東福寺蔵(重要文化財)円爾書状 東京国立博物館蔵
円爾(えんに、建仁2年10月15日(1202年11月1日) - 弘安3年10月17日(1280年11月10日))は、鎌倉時代中期の臨済宗の僧。諡号(しごう)は聖一国師(しょういちこくし)。駿河国(静岡県)の出身。 建仁2年(1202年)10月15日、駿河国安倍郡藁科村(現・静岡市葵区栃沢[1])に生まれる[2]。父は平氏、母は税氏の出身[2]。 5歳のとき、久能山久能寺の堯弁に師事し、弁円と名乗る[3]。ここで、『倶舎論』を読みやすくした詩・『倶舎頌』や、同書の註釈書『倶舎円暉頌疏』、『倶舎論普光疏』を学んだ[3]。 12歳のとき、天台宗の聖典『法華経』の註釈書『法華玄義』を学んだ[3]。16歳の頃には、『摩訶止観』『法華文句』などを読破した[3]。 18歳で得度(園城寺にて落髪し、東大寺で受戒[4])し、上野国長楽寺の栄朝、次いで鎌倉寿福寺の行勇に師事して臨済禅を学ぶ。嘉禎元年(1235年)、宋に渡航して無準師範の法を嗣いだ。法諱は初め弁円と称し、円爾は房号であったが、後に房号の円爾を法諱とした(道号はなし)。なお、「円爾弁円」と4字で表記される場合もあるが、前述のとおり円爾には道号はなく、新旧の法諱を併記した「円爾弁円」という表記は適切ではない。 仁治2年(1241年)、宋から日本へ帰国後、上陸地の博多にて承天寺を開山、のち上洛して東福寺を開山する。宮中にて禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くした。その宗風は純一な禅でなく禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本とするものの、禅のみを説くことなく真言・天台とまじって禅宗を広めた。このため、東大寺大勧進職に就くなど、臨済宗以外の宗派でも活躍し、信望を得た。 晩年は故郷の駿河国に戻り、母親の実家近くの蕨野に医王山回春院を開き禅宗の流布を行った。また、宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称される。墓所ともなった「医王山回春院」の名は茶の持つ不老長寿の効能をうたったものと伝えられる。 なお、静岡市では、円爾の誕生日(新暦)である11月1日を「静岡市お茶の日」に制定し、茶業振興のPRに努めている。 没後の応長元年(1311年)、花園天皇から「聖一」の国師号が贈られた。頂相も比較的多く残っており、3種類に大別できる。また自賛像だけでも、南禅寺天授庵に1点(重要文化財)、万寿寺に1点(重文、京都国立博物館寄託)、東福寺に4点が確認されている。 宋から帰国する際、寧波から出向した船団のうち二艘は沈み、円爾の乗り合わせた一艘のみが高麗を経由して博多に到着できた。円爾が収集し輸入した書籍は「普門院論章疏語録儒書等目録」(「普門院蔵書目録」)などにリスト化されており、禅宗関連の書籍のほか、仏教の経典や論書、天台系の論書や解説書、さらに儒教系の典籍、医学書など、様々な分野の数千巻に及ぶ宋版などをもたらした[5]。
生涯