円楽寺
本堂
所在地山梨県甲府市右左口町4104
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度34分15.1秒 東経138度34分55.4秒 / 北緯35.570861度 東経138.582056度 / 35.570861; 138.582056
円楽寺(えんらくじ)は、山梨県甲府市右左口町[1]にある寺院。真言宗智山派の寺院で、山号は七覚山。
本尊は薬師如来。明治に神仏分離が行われるまで、五社権現の別当寺であった。 所在する甲府市右左口町は甲府盆地南部に位置する。盆地南端に延びる曾根丘陵上に立地し、南側には笛吹川の支流・七覚川が流れる。また、御坂山地北麓に位置し、背後に位置する尾根上に六角堂跡や行者堂跡がある。甲斐国と駿河国を結ぶ街道のひとつである中道往還の沿道にあり、中世から近世に甲斐における修験道の拠点となった。中世にはしばしば戦火の影響を受ける。 『甲斐国社記・寺記
沿革
南北朝時代の正平6年/観応2年(1351年)には、当寺付近で南朝方として活動した甲斐守護・武田政義の弟・貞政が、北朝側と見られる小笠原政長に攻められて、敗北している。
聖護院門跡の道興の『廻国雑記』[2]によれば、室町時代後期の文明19年(1487年)には、道興は諸国巡礼の際に円楽寺に滞在し、観桜を催し、吉田(富士吉田市)へ向かっている。『廻国雑記』では円楽寺は霊地であり、多くの僧や山伏が集っていたと記している。
戦国時代には、『王代記』永正13年(1516年)9月8日条[3]によれば、同年には駿河国今川氏の侵攻で道宇を焼失している。弘治2年(1556年)には武田晴信(信玄)による寺領安堵を受けている[4]。武田氏滅亡後も、徳川氏による寺領安堵を受ける。明治11年(1878年)には火災で本堂が焼失し、大正6年(1917年)に再建される。
『甲斐国志』仏寺部[5]によれば、江戸時代には真言宗醍醐寺報恩院の末寺で、真言宗壇林7か寺のひとつに数えられている。甲斐国における@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}本山派[要出典]修験道の拠点となり、六角堂は甲斐における六十六部廻国納経の納経所のひとつであったという。また、『国志』によれば、寺では行者堂に僧を派遣して関銭を徴収して富士道者への修法を行い、登山者に金剛杖を施与したという。2005年(平成17年)から翌年にかけて、前年から開始された山梨県内中世寺院分布調査の一環として右左口町岩窪の六角堂跡の発掘調査が行われている。
また、旧右左口村出身の歌人・の山崎方代の菩提寺でもあり、命日である8月19日には方代忌が行われている。 中世には古代から営まれている経塚造営のほか、小形経筒に納めた経典を寺社に奉納することが行われる。所蔵されている円楽寺経筒は全国でも数少ない寺社奉納経筒として知られる。六十六部聖
奉納経筒
文化財
山梨県指定有形文化財