円成寺
本堂(重要文化財)
所在地奈良県奈良市忍辱山町1273
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度41分44.98秒 東経135度54分55.42秒 / 北緯34.6958278度 東経135.9153944度 / 34.6958278; 135.9153944
春日堂(左)・白山堂(右)(国宝)楼門(重要文化財)庭園(名勝)宇賀神本殿(重要文化財)
円成寺(えんじょうじ)は、奈良県奈良市忍辱山町(にんにくせんちょう)にある真言宗御室派の寺院。山号は忍辱山(にんにくせん)。本尊は阿弥陀如来。奈良市街東方の柳生街道沿いに位置する古寺で、仏師・運慶のもっとも初期の作品である国宝・大日如来像を所蔵する。紅葉の名所としても知られる[1]。 円成寺について『和州忍辱山円成寺縁起』(以下『円成寺縁起』と略称)は、奈良時代の創建を伝え別の縁起には延喜年間(901年 - 923年)の創建を伝えるが、いずれも伝承の域を出ないものである。『円成寺縁起』によれば、この寺は鑑真とともに渡日した唐僧の虚滝
歴史
前述の『円成寺縁起』『知恩院縁起』『円成寺略言志』とも、命禅(みょうぜん)という僧を中興の祖としている。『本朝高僧伝』所収の命禅伝によれば、命禅は万寿3年(1026年)に諸国行脚の後、忍辱山に至り、この地に十一面観音立像を祀る寺を建立して円成寺と号したという[3]。また、この十一面観音立像は春日明神が彫ったものであるという。こういったことからか、当寺は春日の奥の院とも呼ばれるようになった。
平安時代後期の寺史について『円成寺縁起』は、浄土教系の小田原聖こと迎摂上人経源と、真言系の僧で広隆寺別当、東寺長者、高野山管長、東大寺別当を歴任した御室仁和寺の寛遍僧正の名を挙げている。同縁起によれば、天永3年(1112年)に経源が阿弥陀堂を建立し、阿弥陀如来を当寺の本尊として安置したという。その40年ほど後の仁平3年(1153年)、寛遍が入寺し東密広沢六流の一つである忍辱山流を興したという[4]。
寺に現存する木造十一面観音立像は、寺伝によれば前出の命禅が祀った像とされるが、技法・作風からみれば『本朝高僧伝』の伝える万寿3年(1026年)よりも古い、10世紀末頃の作品とみられる[5]。円成寺の現本尊である阿弥陀如来坐像は、技法・作風から11世紀後半から12世紀初頭の作とみられ、『円成寺縁起』に登場する経源が本尊として安置した阿弥陀如来像がこれに当たる可能性もある[6]。また、伽藍の前面に広がる苑池を中心とした庭園はその形式から平安時代末期、12世紀頃の作と推定される。以上のことから円成寺は平安時代中期に創建され、12世紀半ばの寛遍の頃に寺観が整備されたとみられる[7]。
室町時代に応仁の乱(1467年 - 1478年)の兵火にかかって堂塔伽藍の大半が焼失したが、子院である知恩院院主・栄弘阿闍梨を中心にして再興された。文明13年(1481年)、栄弘は室町幕府の大御所足利義政の使者として朝鮮に赴き、高麗版大蔵経を入手している。