円地 文子
(えんち ふみこ)
主婦と生活社『主婦と生活』1月号(1960)より。右は挿絵画家の森田元子
円地 文子(えんち ふみこ、1905年(明治38年)10月2日 - 1986年(昭和61年)11月14日)は、日本の小説家。本名:圓地 富美(えんち ふみ)。上田万年二女。戯曲から小説に転じ、『ひもじい月日』で文壇に地位を確立[1]。江戸末期の頽廃的な耽美文芸の影響を受け、抑圧された女の業や執念を描いて古典的妖艶美に到達。戦後の女流文壇の第一人者として高く評価された。『源氏物語』の現代語訳でも知られる[2]。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 1905年10月2日、東京府東京市浅草区向柳原2-3(現・台東区浅草橋)に、父上田万年(38歳)、母鶴子(29歳)の二女として生まれる[3]。本名富美。家族は他に、父方の祖母いね(66歳)、兄寿(8歳)、姉千代(4歳)がおり、さらに女中、書生、兄の乳母、抱え車夫の夫婦などがいた[4]。父万年は東京帝国大学文科大学(後の文学部)国語学教授で、後に現代国語学の基礎の確立者と称される人物である[5][3]。父母共に、歌舞伎や浄瑠璃を好み、幼少期から影響を受けて育った。それらは、江戸時代の頽廃芸術の流れを汲んだもので、「そこに育てられてきたものには性の倒錯も含まれていたと思われる」と後に円地は回想している[6]。 1907年2歳の時に麹町区(現・千代田区)富士見町30に転居、祖母いねから『南総里見八犬伝』や『椿説弓張月』、『偐紫田舎源氏』、浄瑠璃、歌舞伎の台詞などを繰り返し聞かされて育ち、また、江戸下町に伝わる怪談や近世後期の種々の草双紙類の魅力に惹き入れられたことが、後の文学的素地を培った[7]。6歳の時には下谷区(現・台東区)谷中清水町17[注 1]に移った。 1912年4月、東京高等師範学校付属小学校二部(後の筑波大学附属小学校)に入学、当時は珍しかった男女共学のクラス(6年まで)だった[8]。もっとも学校が遠いうえに、身体が弱く、3分の2ほどしか登校しなかったという[9]。5、6年生の頃には『源氏物語』などの古典や谷崎潤一郎の小説を読み始め、歌舞伎にも親しんだ[8]。 1918年4月、日本女子大学付属高等女学校(現在の日本女子大学附属高等学校)に入学、変わらず歌舞伎や小説に耽り、谷崎のほか泉鏡花や芥川龍之介、ワイルド、ポーなど物語性の強い作家、特に永井荷風に熱中した[10]。
来歴・人物