円仁
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2016年3月)

この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2016年3月)
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円仁

圓仁

円仁
延暦13年 - 貞観6年1月14日
794年 - 864年2月24日

号(金剛名号)大勇金剛
諡号慈覚大師
生地下野国安蘇郡、都賀郡
宗派天台宗山門派
寺院立石寺毛越寺中尊寺大慈寺延暦寺その他全国に凡そ700箇寺といわれる。
師広智、最澄、元政、義真
弟子惟暁
著作『入唐求法巡礼行記
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円仁(えんにん、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:圓仁)は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。入唐八家(最澄空海常暁円行・円仁・恵運円珍宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏
留学まで
出生詳細は「円仁誕生の地」を参照誕生の地(栃木市岩舟町下津原)

延暦13年(794年)、下野国都賀郡または安蘇郡に豪族壬生氏の子として生まれる。

出生地については諸説あり、

壬生寺(現・下都賀郡壬生町大師町)


美加保ノ関(栃木市藤岡町三鴨の都賀字館・佐野市越名)


三毳山東麓手洗窪(安蘇郡下津原、現・栃木市岩舟町下津原)

などの説がある。
入門と出家

兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。

大同3年(808年)、15歳のとき、広智に連れられ比叡山延暦寺に上り、最澄に師事する。奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

弘仁5年(814年)、言試(国家試験)に合格、翌年21歳で得度(出家)する。弘仁7年(816年)、23歳で三戒壇の一つ東大寺具足戒(小乗250戒)を受ける。この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。弘仁8年(817年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。その灌頂したときの投華得仏は金剛薩?で「大勇金剛」の密号を与えられたと云われる。弘仁13年(822年)29歳で最澄から一心三観の妙義を授けられ、その後最澄は死去した。
唐への留学
遣唐使の渡海の困難

承和3年(836年)、1回目の渡航失敗、翌承和4年(837年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。承和5年(838年)6月13日、博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁は潮で濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』開成3年(838年)7月2日条)。

※上陸日である唐の開成3年7月2日は日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
天台山を目指すも規制と実力滞在

最後の遣唐使としてに留学するが、短期間の請益僧(学業を修めた僧が、その業を深め疑問を解決するための短期留学僧)であったため目指す天台山へは、規制が厳しくなり旅行許可が下りず、そのまま帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁は遣唐使一行と離れて、外国人僧の滞在には唐皇帝の勅許が必要だったが、危険を冒して不法在唐を決意する[1]。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て懐かしく思い、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。敬文は唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ一夜を過ごすも、村人たちに不審な僧だと警戒される。中国語が通じず、「自分は新羅僧だ」と主張しているが新羅の言葉でもなく、怪しい僧だと役所に突き出され、再び遣唐大使一行のところに連れ戻される(『行記』開成4年(839年)4月10日条)。
在唐新羅人社会の助け

当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島の新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅人社会の助けを借りて唐残留に成功(不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝高設立の赤山法華院で聖林という新羅僧から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く。唐内では多くは一日約40kmを徒歩で移動していた(『行記』開成5年(840年)2月19日?4月28日の58日間)。
五台山巡礼

承和7年(840年)、五台山を巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台叶斗峰にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』開成5年(840年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山で客死した霊仙三蔵)。法華経密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象[2]。『行記』開成5年(840年)5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。


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