円仁誕生の地
[Wikipedia|▼Menu]
慈覚大師像(長楽寺蔵)

円仁誕生の地では、平安時代の高僧・慈覚大師円仁が誕生した場所にまつわる諸説、論争について述べる。

円仁は794年延暦13年)、豪族壬生氏の子として生まれた。兄の秋主からは儒学を勧められるも早くから仏教に心を寄せ、9歳で小野寺山大慈寺の広智、のち15歳で比叡山延暦寺最澄に師事した。遣唐使として唐に留学、『入唐求法巡礼行記』を記し、帰国後は山門派の祖となった。

日本三代実録』、『元亨釈書』、『本朝高僧伝』といった史書では、円仁の出生地については「下野国都賀郡」(現在の栃木県)とのみ記しており、それ以上の詳細は明らかにしていない[1]。このため近世以降、主に次の2説の間で論争がある。

現在の下都賀郡壬生町大師町、紫雲山壬生寺とする説(以下「壬生説」)

現在の栃木市岩舟町下津原、高岡山法幢院高平寺別院(故地)誕生寺とする説(以下「岩舟説」)

上の2箇所双方には、円仁が生まれた際に上空に紫の雲がたなびき、広智がそれを見たという言い伝えがある[2][注釈 1]。また、円仁が産湯を使ったと称する井戸がそれぞれ現在も残っている。
壬生説壬生寺にある円仁産湯の井戸

壬生寺の寺伝によれば、貞享3年(1686年)、輪王寺宮天真親王が日光へ向かう道中、円仁誕生の旧跡が荒廃していることを嘆き、時の壬生城主・三浦壱岐守直次(時期と官職名は明敬に一致する[4])に命じて大師堂を建立し、飯塚(現小山市大字飯塚)の台林寺をそこに移建して別当としたという[5]。貞享3年11月付で壬生寺大師堂の棟札の裏に書かれた文書がその記録であり、壬生説の初出となっている[6]。また、壬生寺周辺の呼称を「お里」と言ったことが江戸時代初期に記録されていて、これは円仁の故郷だからであると伝えられている[5]

その後、歴代の輪王寺宮や輪王寺門跡によって、大師堂の改修、報恩会の組織、大法要などが行われた[5]1688年元禄元年)の『下野風土記』には、慈覚大師の産湯の井戸が壬生に存在すると記される[7]1911年明治44年)、岩舟の手洗窪に「慈覚大師誕生霊蹟碑」が建てられた際には岩舟説と争われ、天台宗幹部らの支持を得た[8]土屋文明1971年昭和46年)に壬生寺を訪れ、円仁にまつわる歌を詠んでいる[5]

壬生説について、岩舟説の立場からは「円仁が壬生氏である事から後世附会されたものである」[1][9]という見方のほか、より具体的に「日光への道中で、日光例幣使(天真親王の誤伝)が円仁の誕生地を下問した際、近臣が苦し紛れに答弁したことが発祥である」とする伝承もある[10]
岩舟説高平寺別院誕生寺(手洗窪)

高平寺の寺伝によれば、円仁は三毳山(みかもやま)東麓、現在の栃木市岩舟町下津原手洗窪(たらいくぼ)に生まれ、9歳まで高平寺で修行したという[11][注釈 2]。この地は近世まで下津原村として安蘇郡に属し、のち都賀郡に移管され、下都賀郡岩舟町を経て栃木市に編入している[注釈 3]。なお、手洗窪はもともと「盥窪」と書き、円仁の産湯の井戸からその地名が付いたとされる[11]

誕生の地が三毳山の周辺であるという説の根拠としては、順徳天皇の撰による鎌倉時代の歌学書『八雲御抄』の記事に「下野 みかほの関 山也 みかほの山ハ古名所但在常陸国歟 是者慈覚大師生所也 未詠可歟」、同じく鎌倉時代に愚勧住信によって編まれた説話集『私聚百因縁集』に「抑慈覚大師俗姓三生氏、下野国都賀郡人也 或云都加部関守子也」[1][16][17]、同じく鎌倉時代の光宗による仏教書『渓嵐拾葉集』に「覚大師親父 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}天(〔ママ〕)生氏人 三嶋関 鎮将也(中略)此山形三岑而頭似鶏 故号三鴨山也 此山有関 故号三鴨関也云々」とあること[18][注釈 4]などが挙げられる。みかほの関(みかもの関)は、三毳山に設けられた東山道の関であり[16]、以上の諸文献は円仁がその関守の子であると伝えている。また時代が下ると、江戸時代初期の公卿烏丸光広が著した『日光山紀行』に「佐野を一里ばかり行きて、盥窪と云ふ所あり。慈覚大師生湯浴みたまふ故とかや」とある[19]

ほかに、手洗窪ではないがその付近を誕生地とする服部清道の説[20]や、東隣の旧安蘇郡畳岡村(現在の栃木市岩舟町畳岡)付近を誕生地とする佐伯有清の説[21]がある(#研究史)。
研究史

江戸後期に『下野国誌』を編纂した河野守弘は、壬生説に対して2点の反論を加えた[9]。ひとつには、円仁誕生時に紫雲がたなびいたと伝えられるのが壬生の地であれば、太平山鍋山伊吹山などの連峰に遮られて大慈寺からは見えないとしている[9]。もうひとつは、現在の壬生町に壬生城を構えその地名の由来となった壬生氏について、室町時代寛正年間(寛正3年とされる)に京都から移り住んだ壬生胤業がその祖であり(それ以前の地名は「上の原」であったという)、円仁が生まれた時代には壬生氏はその地に定着していないことである[9][22][注釈 5]。なお河野は、円仁を輩出した壬生氏は豊城入彦命の後裔(毛野氏の流れをくむ壬生氏)であるとし、胤業と祖先を異にすると見ていて、後述の田嶋隆純の説もこれを承けている[22]

大正時代には足利出身の郷土史家・考古学者だった丸山瓦全が岩舟説を強く支持し[24]、昭和に入ると服部清道と田嶋隆純も岩舟説の論陣を張った。板碑研究で知られる歴史家の服部は現地調査の上で、円仁の誕生地を壬生でも手洗窪でもないとし、しかし三毳山麓であり旧安蘇郡下津原村付近にあるという結論を示した[20]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:43 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef