内部マケドニア革命組織
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この項目では、19世紀末から20世半ばにかけて存在したバルカン半島南部における政治的革命組織の内部マケドニア革命組織(略称:VMRO)について説明しています。

20世紀末に成立したマケドニア共和国の政党である内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党(略称:VMRO-DPMNE)については「内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党」をご覧ください。

その他の内部マケドニア革命組織については「内部マケドニア革命組織 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ブルガリア・マケドニア・アドリアノープル革命委員会の規則の抜粋。(1896年)(ブルガリア語)

ブルガリア・マケドニア・アドリアノープル革命委員会の規則

第1章 - 目的
第1項 ブルガリア・マケドニア・アドリアノープル革命委員会の目的はマケドニア・アドリアノープル地域における全ての政治的自治権を保障することである。
第2項 この目的を達成するため、委員会は第1項にかかげた地域におけるブルガリア人の自衛に対する意識を高め、口頭または書面を通じて革命思想を広め、武装蜂起を準備し、促す。

第2章 - 組織と構成
第3項 ブルガリア・マケドニア・アドリアノープル革命委員会の構成員になれるのはブルガリア人であり、性別の区別なく…マケドニア・アドリアノープル秘密革命組織の規則の抜粋(1902年)(ブルガリア語)

マケドニア・アドリアノープル秘密革命組織の規則

第1章 - 目的
第1項 マケドニア・アドリアノープル秘密革命組織は、マケドニア・アドリアノープル地域における全ての不満要因を糾合し、民族の別に関わらず、革命を通じて、全ての政治的自治権を勝ち取る目的を有する。
第2項 前記の目的を達成するために組織は、マケドニア・アドレアノープルの人民を分断し共通の敵との戦いを阻害する狂信的愛国主義プロパガンダを否定し、革命心と自覚を人民の間に持ち込み、一般的かつ世界的な覚醒のために必要な全てを持った人民による、時宜を得た来るべき闘争のあらゆる努力と手段を利用する。

第2章 組織と構成
第3項 マケドニア・アドリアノープル秘密革命組織は、地元の町や村で構成されている地域の革命組織によって構成される。
第4項 マケドニア・アドリアノープル秘密革命組織の構成員になれるのは、全てのマケドニア人、アドリアノープル人であり、…内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の規則の抜粋(1906年) (ブルガリア語)

内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の規則(1906年の通常会議により改定)

第1章 目的
第1項 内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の目的は、民族の区別なくマケドニアおよびアドリアノープル州におけるあらゆるすべての不満要因を糾合し、これらの地域における政治的自治権を獲得することである。
第2章 組織はこれらの地域を分割し支配しようとするあらゆる他国の動きに反対する。

第2章 手段
第3項 前記の目的を達成するために組織は、地域を分断し弱らしめる民族主義的議論および狂信的愛国主義の廃絶を目指し、…

内部マケドニア革命組織(ないぶマケドニアかくめいそしき、ブルガリア語:Вътрешна македонска революционна организация, ВМРО、ラテン文字転写:Vatreshna Makedonska Revoliucionna Organizacia、マケドニア語:Внатрешна Македонска Револуционерна Организаци?а, ВМРО、ラテン文字転写:Vnatreshna Makedonska Revolucionerna Organizacija)は、オスマン帝国の領土であったマケドニアおよびトラキア地方、並びにブルガリア、および1913年以降はセルビアおよびギリシャ領マケドニア地域でも活動した政治的革命組織。幾度か組織名を変更している(後述)。頭文字をとってVMRO(ВМРО)、またはその名称を英語に翻訳した「Internal Macedonian Revolutionary Organization」の頭文字をとってIMROとも通称される。

20世紀末以降のマケドニア共和国およびブルガリアには、「内部マケドニア革命組織」の名を冠した右派の政治組織が複数存在する(内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党など)。これについてはそれぞれ別項を参照されたい。なお、本項で述べるアドリアノープルとはトルコのエディルネのことであり、ここではオスマン帝国時代に存在したエディルネを中心とするトラキア地方の州を表す(詳細はSubdivisions of the Ottoman Empireも参照)。
起源と目的

VMROの起こりは1893年で、オスマン帝国支配下のテッサロニキで発足した小規模な反オスマンのマケドニア・スラヴ人革命組織で、後にブルガリア人が支配するようになった[1]。彼らはマケドニアを独立した領域であり、その住人は民族の別に関わらずマケドニア人と呼ぶべきであると考えていた。VMROは秘密革命組織であり、19世紀末から20世紀はじめにかけて、マケドニア地方に自治国家を打ち立てる目的で活動をはじめ、後にブルガリアによるバルカン半島の政治への関心に従って動くようになっていった[2]。組織を指導したのはフリスト・タタルチェフ(Христо Татарчев、Hristo Tatarchev)、ダミアン・グルエフ(Дамян Йованов Груев、Dame Gruev)、ペタル・ポプ=アルソフ(Петар Поп Арсов、Petar Pop-Arsov)、アンドン・ディミトロフ(Andon Dimitrov)、フリスト・バタンジエフ(Hristo Batandzhiev)、イヴァン・ハジニコロフ(Ivan Hadzhinikolov)であった。

フリスト・タタルチェフの記録によると、最初の組織名はマケドニア革命組織(MRO)であった。イヴァン・ハジニコロフは自身の記録の中でマケドニア革命組織の設立時の5つの基本原則を記している。
革命組織はマケドニアで組織され、マケドニアで活動すべきであり、これによってギリシャ人およびセルビア人は革命組織をブルガリア政府の手先だと決め付けることが出来なくなる。

革命組織の設立者はマケドニアに住む地元の人間であるべきである。

革命組織の政治目標はマケドニアの自治であるべきである。

革命組織は秘密で、独立したもので、他の独立国家の政府とのつながりのないものであるべきである。

ブルガリアおよびブルガリア社会に暮らすマケドニア人移民は、マケドニアの革命闘争に対し精神的および物的な支援のみを与えるべきである。[2]
組織の指導者、フリスト・タタルチェフ.

フリスト・タタルチェフによると、われわれは組織の目標について長きにわたって話し合い、その目標をブルガリア的要素を中心としたマケドニアの自治と定めた。我々は直接ブルガリアの一部となることはできない。なぜならばそれは列強諸国や、周囲を取り巻く国々およびトルコによる野望との大規模な衝突を生み出すことになるからだ。ひとつになった自治マケドニアはその後ブルガリアと統一するほうが容易であり、また万一の事態にはマケドニアがバルカンの人々の連携を図る上で重要な役割を果たしうるという我々の考えによるものだ。アドリアノープル地域は、私の知る限り、この活動の一翼を担ってはおらず、アドリアノープル地域を自治マケドニアに追加する考えは後になって出てきたものだ。 ? [3]

ダミアン・グルエフの記録によると、MROの目的は次のように定められていた。我々は共に集まり規則を制定した。この規則は、ベルリン条約の履行要求と同じ原則に基づいている。規則はブルガリア解放前のブルガリアの内部革命組織(en)のものをモデルとしている。我々の目標はベルリン条約の決議の履行であった。我々は中央委員会と部署を組織し、会費などについて定めた。構成員たちの入会宣誓も見守った。規則ではセルビアのプロパガンダの影響を受け入れず、逆に人民に焦点を当てることによってそれを跳ね返すことを目指していた。 ? [4]

これらの資料に基づいて[5][6]1896年または1897年における組織の初期の非公式の名称が「ブルガリア・マケドニア・アドリアノープル革命委員会」(BMARC)であり、この名称で1902年に「秘密マケドニア・アドリアノープル革命組織」(SMARO)へと改称されるまで使用されていたという説がブルガリア人によって提唱され[7][8][9]、西側諸国の歴史家の間で受け入れられている[10][11]。幾らかのマケドニア人の歴史家[12][13]はこの「ブルガリア・マケドニア・アドリアノープル革命委員会」の名称が極初期に存在していたことを認めるものの、マケドニア共和国においては一般的には1896年から1902年にかけての名称は「秘密マケドニア・アドリアノープル革命組織」であったと考えられている。どちらの説にも決定的な証拠資料は不足しており、またそのどちらの名称も内部マケドニア革命組織の文書中には現れないものの、これらの名称は日付のない手書きや印刷された規則のなかに登場する。しかしながら、マケドニアの歴史家は「秘密マケドニア・アドリアノープル革命組織」の規則が1989年からロンドンに存在していた点を指摘している[14]。いずれにしても、組織がその名称を1905年に「内部マケドニア・アドリアノープル革命組織」(IMARO)に改称された事実には疑いなく、ブルガリアの歴史においてはこの名称が使われている[15]1915年から1918年にかけてのブルガリアによるマケドニア占領の間、組織は解散されたが、1920年に「内部マケドニア革命組織」(IMRO)の名称で復活した。ゴツェ・デルチェフ

当初の委員会によって規定された目標は、オスマン帝国支配下の「マケドニアおよびアドリアノープル州(Vilayet)における全ての不満要因を糾合し、それによって地域の自治権を勝ち取る」ことであった。この時組織は、地域のヴラフ人ギリシャ人、さらにトルコ人の助力も期待していた。精力を精神的プロパガンダの流布に集中し、抵抗運動とテロ活動の見込みは希薄であった。組織は急速に成長し、数年のうちに委員会はマケドニアおよびアドリアノープル州の多くの地元の抵抗組織とのネットワークを形成するようになった。この動きは主にブルガリア正教会が中心となり、また地元またはブルガリア出身の教師が関わっていた[16]

内部マケドニア革命組織は主に、設立当初から民族的にはブルガリア人が主流を占めていたが、その考え方はマケドニアの自治を目指し、ブルガリア政府の方針とは距離を置いたものであり、ブルガリアによって動かされていたものではなかった。組織の指導者たちは、自治権獲得運動がブルガリア政府の手先となるよりも、列強諸国から好意的に見られることをより強く望んでいた[17]

イギリスのジャーナリスト、ヘンリー・ブレイルズフォード(H. N. Brailsford)いわく、ブルガリア好きなマケドニア人たちが1893年に驚くべき革命組織を設立したとき、セルビア人は彼らによって致死的なブローを浴びたことになる。セルビア人のブルガリア人に対する敵愾心が強調される中、セルビアは公然とトルコ好きの政策を採るようになり、そのことは何よりもトルコにおけるキリスト教徒たちにとっては致命的であった。マケドニア人の農民たちは、オスマン帝国の束縛からの速やかな解放への見通しを約束するプロパガンダに対してのみ忠誠心を向けるようになるだろう。そして最後に、この対立する国々のプロパガンダの間には大きな違いがある。


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