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凡例内藤隆世
時代戦国時代
生誕天文5年(1536年)
死没弘治3年4月2日[1](1557年4月30日)
別名受領名:弾正忠[1]、彦太郎[1]、修理進[1]、下野守[1]
墓所功山寺(山口県下関市)
主君大内義長
氏族内藤氏
父母父:内藤隆時[1]、母:不明
兄弟隆世、女(陶晴賢室)
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内藤 隆世(ないとう たかよ)は、日本の戦国時代の武将。守護大名大内氏の家老内藤氏の当主。大内義長に最後まで仕え、長門守護代を務めた。 父内藤隆時が早世していたため、天文20年(1551年)、義兄の陶隆房(晴賢)が大内義隆に謀反(大寧寺の変)した直後に隠居した祖父興盛の跡を継ぎ家督を相続した。変の後に大友氏から迎えられた大内義長の元で、実権を握る晴賢と共に大内家重臣となった。 弘治元年(1555年)の厳島の戦いには参加しなかった。この戦いで晴賢が毛利元就により敗死すると、大内氏家中は激しく動揺する。そんな中、先に晴賢に誅殺されていた杉重矩の子重輔が突如挙兵し、陶氏の居城富田若山城を攻撃、晴賢の子長房を攻め滅ぼす事件が起きる。 晴賢の義弟であった隆世はこれを知ると義長の制止を振り切り、陶氏旧臣の求めに応じ翌弘治2年(1556年)に出陣、山口市街が灰燼に帰す激戦の末に重輔を死に追いやった。しかしこの内紛は大内氏家中をますます混乱、弱体化させてしまう結果となる。また、内藤氏も叔母尾崎局が毛利隆元の正室だったことから、親陶氏の隆世派と親毛利氏の叔父隆春派に分裂してしまう。 一方、毛利氏はこの混乱に乗じ周防に勢力を広げていく(防長経略)。
生涯
家督相続
晴賢敗死後の混迷