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出典検索?: "内藤重頼"
凡例内藤 重頼
時代江戸時代初期
生誕寛永5年(1628年)
死没元禄3年11月27日(1690年12月27日)
改名弥三郎(幼名)、重頼
墓所京都府京都市左京区の金戒光明寺
官位従四位下、若狭守、伊賀守、大和守、侍従
幕府江戸幕府:大番頭→御側衆→若年寄
→大坂城代→京都所司代
主君徳川家光→家綱→綱吉
氏族内藤氏
父母父:内藤正勝、母:板倉重宗娘
妻正室:久世広当の娘
子娘(森川重高正室)
養子:清枚
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内藤 重頼(ないとう しげより)は、江戸時代初期の旗本、のち大名。高遠藩内藤氏第5代(第6代とする説あり)。 寛永5年(1628年)、安房勝山藩第2代藩主・内藤正勝の長男として誕生する。寛永6年(1629年)に正勝が死去すると、重頼は幼少のため、遺領2万石のうち5000石のみを相続した。減封にともない内藤家は大名から旗本となり、安房勝山藩は廃藩となった。 万治3年(1660年)の定火消を皮切りに、書院番頭、大番頭、御側衆を歴任した。寛文2年(1662年)には従五位下若狭守に叙任した。延宝4年(1676年)、所領を安房国長狭郡から下野国内に移封される。 延宝8年(1680年)、徳川綱吉の長男徳松の傅役に就任し、上総国・常陸国・下野国内で3000石を加増され、合わせて8000石を領した。徳松死後の貞享元年(1684年)、若年寄となり常陸国内で5000石を加増、合計1万3000石となり内藤家は大名に復帰する。翌貞享2年には大坂城代に転じ、摂津国・河内国内で2万石を与えられ3万3000石となる[1]。貞享4年(1687年)には京都所司代を命ぜられ、従四位下侍従に叙任した。 元禄3年(1690年)11月27日、63歳で死去した。男子がなかったため、正勝の妹の子で天和元年(1681年)に養子としていた甥の清枚(旗本水野守政の次男)に跡を継がせた。清枚は元禄4年(1691年)に信濃高遠藩へ移封され、以後高遠藩内藤氏は明治維新まで約180年間存続した。 重頼は寛文8年(1668年)、父・正勝の葬儀を行った僧・太宗に寺地を寄進し、江戸に太宗寺を創建している。重頼自身は京都の金戒光明寺に埋葬されたが、その後も太宗寺は高遠藩内藤氏の菩提寺となった。 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2022年3月)
生涯
生い立ちと初期の経歴
内藤家中興の祖
脚注^ “藤原氏 秀ク流 内藤”
参考文献
新宿歴史博物館編集『内藤清成と高遠内藤家展』(財)新宿区生涯学習財団 2008年[要ページ番号]
表
話
編
歴
第17代大坂城代(1685年 - 1687年)
17世紀
内藤信正1619-1626
阿部正次1626-1647
永井直清1648
稲垣重綱1648-1649
内藤信照1649-1652
水野忠職1652-1654
内藤忠興1654-1656
松平光重1656-1658
水野忠職1658-1659
内藤忠興1659-1660
松平光重1660-1661
水野忠職1661-1662
青山宗俊1662-1678
太田資次1678-1684
水野忠春1684
土屋政直1684-1685
内藤重頼1685-1687
松平信興1687-1690
土岐頼殷1691-1712
18世紀
内藤弌信1712-1718
安藤信友1718-1722
松平乗邑1722-1723
酒井忠音1723-1728
堀田正虎1728-1729
松平信祝1729-1730
土岐頼稔1730-1734
稲葉正親1734
太田資晴1734-1740
酒井忠恭1740-1744
堀田正亮1744-1745
阿部正福1745-1747
酒井忠用1747-1752
松平輝高1752-1756
井上正経1756-1758
青山忠朝1758-1760