内藤正縄
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 凡例内藤正縄
時代江戸時代後期
生誕寛政7年(1795年
死没安政7年2月25日1860年3月17日
別名叔之丞(幼名)
官位従五位下下総守、式部少輔豊後
幕府江戸幕府大番頭伏見奉行
信濃岩村田藩
氏族水野氏内藤氏
父母父:水野忠光、養父:内藤正国
兄弟水野忠邦、内藤正縄、堀直哉跡部良弼
駒木根政任、水野忠勧、長谷川正道
妻正室:大岡忠正の娘
正義(長男)、有馬則篤(次男)
竹腰正厚(四男)、信民(五男)
娘(松前徳広正室)、娘(岡田善宝正室)
娘(角倉玄祐室)、娘(横山知哲正室)
養嗣子:正誠

内藤 正縄(ないとう まさつな)は、江戸時代後期の大名信濃岩村田藩の第6代藩主。岩村田藩内藤家7代。天保の改革を行なった老中水野忠邦の実弟である。

寛政7年(1795年)、肥前唐津藩の第3代藩主・水野忠光の三男として生まれる。享和3年(1803年)閏1月18日、前年に死去した岩村田藩主・内藤正国の甥にあたることから養子に迎えられ、9歳で家督を継いだ。文化6年(1809年)10月1日、将軍・徳川家斉に拝謁する。同年12月28日、従五位下下総守に叙任する。文化9年6月13日、初入国の許可を得る。

文化7年4月、日光祭礼奉行を命じられる。文化11年2月、大坂加番を命じられる。文政8年(1825年)12月、大番頭に就任する。天保9年(1838年)9月24日、伏見奉行に就任した。在任中、京都で逮捕された梅田雲浜を取り調べるなど、井伊直弼による安政の大獄を支えた。その功績により安政5年(1858年)7月11日には城主格に昇進した。安政6年8月11日、解任されて、雁の間詰めとなる。

万延元年(1860年)2月25日に死去した。享年66。長男の正義は安政元年(1854年)に早世しているため、正義の長男で嫡孫の正誠が跡を継いだ。

なお、正縄の手植の梅の古樹が岩村田にあり、正縄公御手植の「豊後梅」と呼ばれている[1]
脚注^ 『週刊さくだいら』2010年11月3日別号6ページ










内藤氏岩村田藩6代藩主 (1803年 - 1860年)


内藤正友1703-1711

内藤正敬1711-1746

内藤正弼1746-1770

内藤正興1770-1792

内藤正国1792-1802

内藤正縄1803-1860

内藤正誠1860-1871

廃藩置県




更新日時:2019年4月7日(日)14:28
取得日時:2019/07/22 11:03


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