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凡例内藤政養
内藤政養
時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕安政4年7月7日(1857年8月26日)
死没明治44年(1911年)3月6日
改名長寿麿(幼名)、政養
墓所神奈川県鎌倉市の光明寺
官位従五位下因幡守、正五位、従四位、正四位、従三位
幕府江戸幕府
主君徳川家茂→慶喜
藩陸奥湯長谷藩主
氏族内藤氏
父母内藤政恒、内藤政民娘
内藤政敏
兄弟政養ら
妻阿部正備娘
子内藤政潔正室、房子
政憲
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内藤 政養(ないとう まさやす)は、江戸時代後期の大名。陸奥国湯長谷藩13代藩主。官位は従五位下・因幡守。 安政4年(1857年)7月7日、11代藩主・内藤政恒の三男として誕生。幼名は長寿麿。政恒は政養が生まれる以前に養子・政敏を跡継ぎにしていたため、兄2人の夭折の後に生まれた政養は政敏の養子となった。文久3年(1863年)8月19日、養父・政敏の死去により家督を継いだ。 慶応4年(1868年)4月3日、新政府軍から会津攻撃支援の命令を受ける。しかし、同年5月、奥羽越列藩同盟に参加した。政養は12歳ながら、自ら戦場に立って奮戦したという。同年6月29日、新政府軍の攻撃により湯長谷陣屋を攻略される。政養は仙台城下に避難する。同年9月24日、新政府軍に降伏・謝罪を申し入れる。同年9月27日、新政府軍に降伏を認められて、謹慎を命じられる。同年10月10日、東京に移り、延岡藩邸に幽閉される。 明治元年(1868年)12月7日、政養は新政府に抵抗したとして、養子・政憲に家督を強制的に譲らされた上で隠居することとなり、所領も1000石削減の1万4000石に減らされた。明治2年(1869年)9月28日、謹慎をとかれる。 明治44年(1911年)3月6日に死去した。享年55。 父母 正室 子女
略歴
系譜
内藤政恒(実父)
花月院 ー 内藤政民の娘(実母)
内藤政敏(養父)
杰 ー 阿部正備の娘
董子(長女) ー 内藤政潔
房子(次女) ー 堀内宗平室
表
話
編
歴
内藤(遠山)氏湯長谷藩13代藩主 (1863年 - 1868年)
湯本藩
遠山政亮1670-1676
藩庁を湯長谷に移転、以後、湯長谷藩
湯長谷藩
遠山政亮1676-1693
遠山政徳1693-1703
内藤政貞1703-1722
内藤政醇1722-1741
内藤政業1741-1761
内藤貞幹1761-1778
内藤政広1778-1787
内藤政?1787-1799
内藤政m1799-1824
内藤政民1824-1855
内藤政恒1855-1859
内藤政敏1859-1863
内藤政養1863-1868