内藤政樹
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 凡例内藤政樹
内藤政樹像(延岡市教育委員会蔵)
時代江戸時代中期
生誕元禄16年10月29日1703年12月7日[1]
死没明和3年9月24日1766年10月27日[1]
官位従五位下備後守
幕府江戸幕府
主君徳川吉宗家重
陸奥磐城平藩主、日向延岡藩
氏族内藤氏
父母内藤義英
内藤義稠
兄弟政樹、菊姫松平信岑継室
政尭三浦明次継室ら
政陽
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内藤 政樹(ないとう まさき)は、江戸時代中期の大名陸奥国磐城平藩6代藩主[1]日向国延岡藩初代藩主[1]官位従五位下備後守。延岡藩内藤家宗家6代。目次

1 略歴

2 系譜

3 脚注

4 関連作品

略歴

磐城平藩世嗣だった内藤義英(露沾)の長男[1]。父・義英は祖父・内藤義概によって廃嫡され、政樹が生まれた当時は江戸で隠居生活をしていた。享保3年(1718年)に先代藩主・内藤義稠が22歳で嗣子もなく早世したため、義英の子である政樹が跡を継いだ。しかし若年のため、しばらくは松尾芭蕉からも才能を認められるほどの優れた俳人でもあった義英が藩政を後見することとなった。

翌年正月、政樹の新藩主就任祝いとして、松賀族之助・松賀孝興親子から饅頭が献上された。これを怪しんだ義英が饅頭を犬に食わせてみたところ、たちまち犬は死んでしまった。若年の藩主のもとで藩政を牛耳り、あわよくば藩主の座をも狙っていたものの、政樹の後見人としてかつての政敵であった義英がいる以上、それは不可能であると判断した松賀が、政樹の毒殺を謀ったものといわれる。

義英は松賀族之助・孝興親子とその一派を全て捕らえた。取り調べの結果、主犯は老齢の族之助自身ではなく、息子の孝興であると判明した。義英は孝興を投獄し(のち獄死)、族之助とその孫の松賀稠次に対し永蟄居を命じた上、松賀家を断絶処分とした。さらに、松賀親子の腹心島田理助をも処刑するなどの厳しい処断を下した。こうして、延宝8年(1680年)から始まった(実際の騒動の始まりはこの年以前からともいわれる)一連の政治的混乱(小姓騒動)は完全に沈静化した。

その後、義英は再び俳句に専念したため、政樹が藩主として親政を行なうようになる。ところが当時の磐城平藩では、小姓騒動などの混乱や松賀一派の悪政などによる重税で苦しめられた領民の不満、洪水や凶作などの天災と藩財政破綻などが相次いでいた。このため、元文3年(1738年)9月に元文百姓一揆と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生する。この一揆では2万人もの群衆が城下に押し入って役宅や町役所を破壊したりしたが、政樹はこれを力によって弾圧し、百姓の要求を退け、指導者28人を捕らえてそのうち7人を鎌田河原で処刑した。しかし、この百姓一揆発生などの懲罰として延享4年(1747年)、日向延岡に転封された。なお、陸奥国磐城平から日向延岡への転封は、江戸時代を通じて最も長距離の大名の転封である。転封すると三福寺を藩主家の菩提寺とする。

宝暦6年(1756年)、養嗣子・政陽に家督を譲って隠居した。明和3年(1766年)、64歳で死去した[1]
系譜

父:
内藤義英(1655-1733)

母:不詳

室:不詳

長男:内藤政尭(1736-1754) - 早世

女子:三浦明次継室 - のち小出有相継室


養子

男子:内藤政陽(1739-1781) - 内藤政里の次男


脚注^ a b c d e f 『内藤政樹』 - コトバンク

関連作品

超高速!参勤交代(2014年) - 演:甲本雅裕





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